ままで隅のほうにそーっと腰を下ろした。その彼女の目には、涙がいっぱいに湧いていた。
沈黙が続いた。だれも口を利こうとはしなかった。馬車も停まったままだった。馬だけがときどきぴしっぴしっと尾を振って、横腹に飛びつこうとする蠅《はえ》を叩《たた》き落としていた。
「正勝! 何をぼんやりしているの? 急いでいるのに」
しばらくしてから、紀久子が言った。
「ほいやっ、しっ!」
鞭がぴゅっと鳴った。馬は習慣的にどどっとふた足、三足を駆け出した。馬車はそして、ごとごとと平坦な道を走っていった。
「蔦や! おまえ、本当にどこへ行くつもりなの? え? 蔦や!」
紀久子はしばらくしてから訊いた。しかし、蔦代は依然として答えなかった。紀久子は繰り返した。
「どこへ行くつもりなの? 蔦や! おまえはそれをわたしにも言えないの? 蔦や! おまえは、わたしがおまえをどんなに思っているかってこと、おまえには分からないんだね。ねえ? 蔦や!」
「いいえ! それは……それは……」
「いいえ! 蔦やには、わたしがおまえをどんなに思っているかってことが少しも分かっていないんだわ。わたしはおまえを、ただの女中だなん
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