になればいいんだ」
「――しょう……」
紀久子は言葉にはならない声を口にしたが、そのあとがどうしても続かなかった。
「驚くことはねえ!」
「あっ! あっ!……」
「明日の朝、大騒ぎになるに相違ねえから、そ、そ、その時にゃあ紀久ちゃんがいまのことを、はっきりと見た! って言えば、そ、そ、そんでいいんだ」
正勝はさすがに言葉が整わなかった。
「紀久ちゃん! おれの、おれの言ってるの分かるか?」
「え!」
紀久子はじっと正勝の顔を見詰めながら言った。
「こ、こ、これは、しかし、おれがやったことにしてはいけねえんだ。紀久ちゃん! 分かる?」
「え!」
「蔦代が、蔦代が、蔦代が殺したことにしねえといけねえのだ」
「蔦代が?……」
紀久子はそう言ったが、彼女は正勝の言うことが分かっているのではなかった。彼女には何もかもが、全然分からなかった。正勝の顔が自分の前に見えていることさえ、紀久子ははっきりと意識することができないような状態になった。正勝が言っていることの、いかなる意味であるかなど、紀久子は全然消化する力を失っていた。
「紀久ちゃん! 分かるか?」
正勝はしかし、念を押しながら続けた。彼もまた、沸騰するような心臓の動悸のために苛立《いらだ》っていて、判断力を失っているのだった。
「蔦代が殺したことにするんだ。紀久ちゃんは、蔦代が入ってきて父さんを刺したのだ! って言えばそんでいいんだ。そ、そ、そして、それから、蔦代がわたしのほうへ寄ってきたから、わたしは蔦代を鉄砲で撃ったのだ! って言えばそんでいいんだ。紀久ちゃんはそれで立派に正当防衛になるんだから」
「…………」
紀久子はやはり黙りつづけていた。黙って、彼女はじっと正勝の顔を見詰めていた。正勝の言っている言葉の意味を、彼女はどうしても消化することができないのだった。
「なんなら蔦代が、紀久ちゃんを追い回したことにしてもいいんだ。紀久ちゃんは逃げ回って、鉄砲のあるところへ行ったので、その鉄砲で思わず蔦代を撃ったことにすればいいんだ。鉄砲には……」
「鉄砲?」
紀久子は初めて、言葉の形態を備えた言葉を口にした。
「鉄砲でさ。蔦代の身体にある傷は、蔦代の死んだ傷は、鉄砲の傷なんだもの」
「鉄砲?」
紀久子は呆然《ぼうぜん》とその言葉を繰り返した。
「鉄砲でさ。それに、鉄砲にはいつでも弾丸が込もっていて、隣の部屋にかかっていることになっているんだから」
「正勝ちゃん!」
紀久子は低声ながら、叫ぶようにして言った。
「紀久ちゃん! 大きな声をしちゃいけねえ!」
正勝は押しつけるように鋭く言った。
「わたしを助けて……」
「おれの言っているのが分からないのか? おれは自分のためにばかりやっているのじゃねえんだ。いいか、蔦代が殺したことにして、蔦代がそのうえに紀久ちゃんまで殺そうとして追い回したから、紀久ちゃんは鉄砲のある部屋へ逃げていって、そこに弾丸を込めたままかけてある鉄砲を取って思わず撃ってしまったことにすれば、それでいいんだ。それで紀久ちゃんは立派な正当防衛になって、罪にはならねえから」
「…………」
「紀久ちゃん! 分かったかい?」
「え!」
紀久子は微かに頷《うなず》いた。
「それじゃ、こ、こ、これからおれがその準備をするから、支度が出来上がるまで、紀久ちゃんは動いちゃいけねえ。支度ができてから、その寝巻のままで起きて、隣の部屋へ行って鉄砲を撃つんだよ。そして、そこに、みんなが、鉄砲の音を聞いて集まってくるまで、じっとして立ってれば、それで何もかも済むのだ。いいか? それで分かったな?」
「え!」
紀久子は軽く頷いた。
「それじゃ、おれが支度するまで、寝ていてくれ」
正勝がそして静かに、抜き足をして部屋を出ていった。
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第四章
1
暗黒の中に、不気味な沈黙がしばらく続いた。死のような夜更けの酷寒に締めつけられて凍《し》み割れる木材の鳴き声が、冷気を伴ってときどきぴゅんぴゅんと微《かす》かに聞こえてくるだけだった。そして、紀久子は泥沼の底のような不気味な沈黙の中に、歯の根も合わないまでに顫《ふる》え戦《おのの》いていた。
やがて、正勝は蔦代の死骸《しがい》を抱えて入ってきた。そして、正勝は薄い電灯の下に二つの影を引きながら、蔦代の死骸を喜平の死骸の傍《そば》へ持っていった。
「紀久ちゃん!」
正勝は低声《こごえ》にそう呼びながら、蔦代の死骸を喜平の死骸の横に並べた。
「紀久ちゃん! こっちの段取りが終わるまで、紀久ちゃんは寝床の中へ入っていてくれ」
しかし、紀久子はほとんど意識を失っているように、ただわなわなと身を顫わしているばかりだった。
「紀久ちゃん! 寝床の中へ入っていてくれ。でないと、段取りができないか
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