くってことはないよ」
「そんなわけじゃなかったのですがね。弾丸を込めてからここへ置いたのが少し動くもんだから、なにげなく縄をかけてしまって」
「引金へ縄をかけるなんて……」
「正勝! おまえこれから無闇《むやみ》と鉄砲など持ち出しちゃ駄目よ」
 紀久子は命令的に言った。
「無闇と持ち出したわけじゃないんですがね。これからしばらくの間は鉄砲も持たずに、馬を連れて歩くってわけにはいきませんよ。なにしろこれからは熊の出る季節ですからね」
 馭者は反抗的に言った。
「とにかく、そこへ置くことは絶対にいかんね。こっちに寄越したまえ」
 敬二郎は叱《しか》りつけるように鋭く言った。
「弾丸はもう詰まってないのだから、どこへ置いたってもう危なくはないだか……」
 反抗的な語調で繰り返しながらも、正勝は猟銃を解かないわけにはいかなかった。
「それじゃ、これも一緒にそっちへ置いてください」
 馭者はそうして、猟銃と一緒に弾嚢帯《だんのうたい》をも敬二郎に渡した。
「本当に危なかったわ。正勝! これからは気をつけないと駄目よ」
 紀久子は女王の冷厳さをもって言った。
「ほいやっ、しっ!」
 正勝は鞭を振り上げて馬を追った。
 そして、馬車はまた、午後の陽に輝きながら散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは走った。

       2

 馭者の正勝は固く唇を噛《か》み締めながら馬を追った。彼の沼のような落ち着きのうちには、激しい敵愾心《てきがいしん》が嵐《あらし》のように乱れているのだった。彼はそれをじっと抑えつけていた。
(次の機会を待とう!)
 彼は心の中に呟《つぶや》いて、わずかに慰めた。
(いまの弾丸さえ逸《そ》れなかったら……)
 慰めの言葉のあとからすぐ別の想念が湧《わ》いてきて、正勝は容易に諦《あきら》め切れなかった。
(あの弾丸で男のほうだけでも倒れてしまえば、女のほうなんかどうにだってなったのだから……)
 彼のうちの復讐《ふくしゅう》の炎は、失敗の口惜《くや》しさを加えて、かえって激しく燃え立った。
(よし! 帰り道だ! 帰り道で女だけでも先に殺《や》ってしまおう!)
 彼は心のうちに叫んだ。
(女のほうを殺っておいて、男の苦しむのを見たほうがかえって面白い。あいつがあれを奪っておれに与えた苦しみを、おれはあれを殺っつけておれの背負わされた苦悶《くもん》の何倍かの苦悶を、何倍かの深刻さであいつに突っ返してやるんだ)
 正勝の思いはしだいに悪魔的になってきた。彼の敬二郎と紀久子とに対する遣《や》る瀬《せ》ないような復讐心は、復讐のことを考えるだけでも幾分は慰められるのだった。彼は馬の歩むに委《まか》せて、その考えのうちに没頭した。
(しかし、紀久子だってただ簡単に鉄砲で撃ち殺したのでは面白くない。敬二郎よりもだいいち、あの女を苦しめてやらなければならないのだ。何もかも、あの女から出発していることなのだから……)
 彼はそう考えて、その脳髄の隅に新たな積極的な復讐の手段を探った。
(そうだ! 谷底を目がけて馬車をひっくり返すことだ。そうだ! おれは馭者台から飛び降りておいて、馬車を谷底へ追い込んでやることだ。馬が谷を目がけて駆け下りなかったら、馬を押し落としてでもあいつらごと馬車をひっくり返してやるんだ。それだけでは万一に死ななかったにしても、谷から這《は》い上がってくるまでには熊のために食い殺されるに相違ないから……)
 しかし、馬車はもう谷の上を過ぎて、道の両側にはふたたび原生樹林が続いていた。
(なぜこの手段をもっと早く思いつかなかったのだろう?)
 彼はそう心のうちに呟いて、馬車がすでに谷の上を過ぎていることを残念がった。
(帰り道だ! 帰り道で女のほうだけでも……)
 彼はそう考えて、沼のような落ち着きを装いながら馬車を追い進めた。

       3

 原生闊葉樹林帯を抜けると、馬車は植林|落葉松《からまつ》帯の中を通り、開墾地帯に出ていった。道はようやく平坦《へいたん》になってきた。馬車は軽やかに走った。
 午後の陽は畑地一面に玻璃色《はりいろ》の光を撒《ま》いていた。どこまでもどこまでも黄褐色の大豆畑が続き、その茎や莢《さや》についている微毛《のげ》が陰影につれてきらきらと畑一面に蜘蛛《くも》の巣が張っているように光っていた。そして、ところどころには玉蜀黍《とうもろこし》がその枯葉をがさがさと摺《す》り合わせていたりした。
 しばらくして、馬車の前方に一人の人影が見えだした。馬車の進むにつれしだいに大きく、しだいに形を整えて、その後姿が接近してきた。赤い帯、頭のてっぺんに載っている桃割れ。錆茶《さびちゃ》の塗下駄《ぬりげた》。十六、七の少女だった。少女はその小脇に風呂敷包《ふろ
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