恐怖城
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)森谷牧場《もりやぼくじょう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ほんの二、三|分《ぶ》くらいだったわ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「木+忽」、4−1]木《たらのき》
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   第一章

       1

 森谷牧場《もりやぼくじょう》の無蓋《むがい》二輪の箱馬車は放牧場のコンクリートの門を出ると、高原地帯の新道路を一直線に走っていった。馬車には森谷家の令嬢の紀久子《きくこ》と、その婚約者の松田敬二郎《まつだけいじろう》とが乗っていた。松田敬二郎が牧場の用事で真駒内《まこまない》の種畜場へ出かけるのを、令嬢の紀久子が市街地まで送っていくのだった。
 空は孔雀青《くじゃくあお》の色を広げていた。陽《ひ》は激しくぎらぎらと照りつけていた。路傍の芒《すすき》が銀のように光っていた。
「眩《まぶ》しいわ」
 紀久子は馬車の上に薄紫色のパラソルを開いた。
「冬服じゃ暑かったかしら?」
「夜になると寒いんですもの」
「暑いのはもう日中だけですね」
 そして、二人はパラソルの下で身近く寄り添った。
「ほいやっ、しっ!」
 馭者《ぎょしゃ》は長い鞭《むち》を振り上げて馬を追った。馬車はごとごと揺れながら走った。敬二郎と紀久子とはそーっと手を握り合った。
「ほいやっ!」
 馭者は鞭を振り上げ振り上げては、その手を馭者台の横へ持っていった。そこには一梃《いっちょう》の猟銃がその銃口をパラソルの下の二人のほうへ向けて、横たえられてあった。猟銃は馬車の動揺につれてひどく躍っていた。
「あら! 奇麗に紅葉しているわ。楓《かえで》かしら!」
 紀久子はパラソルを窄《つぼ》めながら言った。
「あれは山毛欅《ぶな》じゃないかな? 山毛欅か楡《にれ》でしょう。楓ならもっと紅《あか》くなるから」
 馬車はそして、原生林帯の中へ入っていった。道はそこで一面の落ち葉にうずめられ、もはや一分の地肌をも見せてはいなかった。落ち葉の海! 火の海! 一面の落ち葉は陽に映えて火のように輝いていた。そして、湿っぽい林道の両側には熊笹《くまざさ》の藪《やぶ》が高くなり、熊笹の間からは闊葉樹《かつようじゅ》が群立して原生樹林帯はしだいに奥暗くなっていった。暗灰褐色の樹皮が鱗状《うろこじょう》に剥《む》き出しかけている春楡の幹、水楢《みずなら》、桂《かつら》の灰色の肌、鵜松明樺《さいはだかんば》、一面に刺《とげ》のある※[#「木+忽」、4−1]木《たらのき》、栓木《せんのき》、白樺《しらかば》の雪白の肌、馬車は原生闊葉樹の間を午後の陽に輝きながら、ばらばらと散る紅や黄の落ち葉を浴びて、落ち葉の道の上をぼこぼこと転がっていった。
「ほいやっ、しっ!」
 道はその右手に深い渓谷を持ち出して、谷底の椴松《とどまつ》林帯はアスファルトのように黒く、その梢《こずえ》の枯枝が白骨のように雨ざれていた。谷の上に伸びた樹木の渋色の幹には真っ赤な蔦《つた》が絡んでいたりした。馬車はぎしぎしと鳴り軋《きし》みながら、落ち葉の波の上をぼこぼこと沈んでは転がり、浮かんでは転がっていった。
「おいっ! 正勝《まさかつ》くん! 鉄砲を持ってきているんだね。危ないじゃないか。弾丸《たま》は入っていないのか?」
 馭者台の猟銃に気がついて、敬二郎はそう言いながら猟銃に手を出した。
 瞬間! 猟銃は轟然《ごうぜん》と鳴り響いた。
「あっ!」
 敬二郎は横に身を躱《かわ》した。紀久子がその横腹に抱きついた。馬が驚いて跳び上がった。正勝は怪訝《けげん》そうな顔をして、馭者台から振り返った。
「どどど、ど、どうしたんだ?」
 敬二郎は思うように口が利けなかった。彼は歯の根が合わなかった。真っ青な顔をして木の葉のように顫《ふる》えていた。
「引っ張ったんですか?」
 馭者の正勝は沼のような落ち着きをもって訊《き》いた。
「引っ張るも引っ張らないも、弾丸を込めた鉄砲を……」
「本当に危なかったわ。ほんの二、三|分《ぶ》くらいだったわ。わたしの額のところを、弾丸がすっと通っていったの、はっきりと分かってよ」
 紀久子は溜息《ためいき》をつくようにして、敬二郎の脇《わき》から顔を出した。
「本当に危なかったよ。ほんのちょっとのところで、いまごろは二人とも死んでるところだった」
 敬二郎のうちには、まだ驚愕《きょうがく》の顫えが尾を引いていた。
「熊が出る季節なもんだから、鉄砲を持ってないといつどんなことが……」
「熊が出るからって、弾丸の詰まっている鉄砲をそんなところへ縛りつけて、引っ張れば発砲するようにしてお
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