りにして不真実なる愛を蹴《け》って真実の愛の世界に幸福を求むべきです。それが、わたしからあなたへの最後の言葉です。
 最愛の紀久子さん! 法律のうえから言っても、森谷家の財産は養子としてのわたしが継ぐことになっているのですから、それを正勝になどは決して継がせずに開墾地の人たちへ返してやってください。正勝の口から言わしても、当然のこと開墾地の人たちが受け取るべきだという財産が、開墾地の人たちの手に渡らず、正勝の手に渡るようでは、わたしはとても死に切れません。それだけはくれぐれもお願いします。
 最愛の紀久子さん! 最後まであなたを愛し、なおかつ今後のあなたの幸福を祈りながら。

 黙って二人は顔を見合わせた。
「馬鹿なことを言いやがって……」
 正勝は侮蔑《ぶべつ》の微笑を含みながら吐き出すように言って、紀久子の肩へそっと手を回した。
「何を言ったところで、奴が死んでしまえばおれと紀久ちゃんの世界さ」
「それはそうだわ」
 紀久子は低声に言いながら、遺書を畳んだ。
「馬鹿な奴だなあ、こっちの壷《つぼ》に嵌《は》まって自殺をしてしまいやがったじゃないか。おれと紀久ちゃんとの間には、子供のときから婚約があるんだ」
 正勝は微笑《ほほえ》みながら言って、急に紀久子の唇を求めようとした。
「ここじゃ駄目だわ。あちらへ行きましょう」
 紀久子は微笑をもって優しく言った。
「あちらってどこだい?」
「わたしの部屋へ……」
 紀久子はそう言って、遺書を懐にしながら自分の寝室のほうへ正勝を伴った。

       5

 寝室へ入ると、正勝はすぐまた紀久子の後ろへ手を回して、彼女のわなわなと顫えている赤い唇を求めようとした。
「待ってらっしゃいよ。わたし、着物を着替えてくるわ」
 紀久子はそう言って、正勝の顔を自分の顔の上から除《の》けた。
「着物を着替えてくるって」
「だって! あなたはベッドで寝て待ってらっしゃいよ。すぐだから」
「それじゃ……」
 正勝はすぐベッドへ行って横になった。
「おれたちの世界がようやく来たんだ。おれと紀久ちゃんとの世界が来たんだ。だれももう、おれたちの愛に干渉する者は一人もねえんだ」
 正勝は仰向《あおむ》きになって、独り言のように言った。
「すぐだからね」
 紀久子は微笑みながら優しく言って、部屋を出ていった。

       6

 寝室を出ると、紀久子は唇を噛みながらドアにがちゃりと錠を下ろした。
 紀久子はそして、すぐ敬二郎の死骸《しがい》のある部屋へ飛んでいった。真っ赤に燃えているストーブ。血溜りの中に倒れている死骸。真っ青な死の手に握られているピストル。紀久子は死骸に駆け寄って、その死骸の上へ自分の身体をどっと投げかけた。
「敬さん! 許して。許して。わたしを許してね」
 紀久子は、息詰まるような遣《や》る瀬《せ》のない調子で言った。
「敬さん! わたしが悪かったのだわ。わたしが悪かったのだわ。許してね。わたしもいますぐ、すぐもうあなたのところへ行きますわ。わたしの本当の心をお目にかけますわ。敬さん! 許してね」
 紀久子の声はしだいに啜《すす》り泣きになってきた。
「敬さん! わたしの本当の心が、すぐもうお目にかけられますわ。待っててね。わたし、これからあなたの遺言を実行していくわ。正勝になど、あの悪魔になど、塵《ちり》一つだって与えませんわ。あなたのお言葉どおり、みんなみんな、父が事業を始めるときに移住してきた人たちへ、何もかも分けてやりますわ。わたしも手紙にそのことを書き残しておきましょう。そして、わたしももうすぐあなたのところへ行きますわ」
 紀久子は啜り泣きながら言って、静かに身体を起こした。そして、紀久子は咽んで肩の辺りに波打たせながら、傍らの小卓の前に坐《すわ》り直した。卓の上には、敬二郎の使い残しの紙と万年筆とがあった。紀久子は万年筆を取って、鶏が餌《え》を拾うように首を動かしながら、啜り泣きながら、涙に曇ってくる目を幾度も幾度も押し拭《ぬぐ》いながら、一字一字を植え付けるようにして手紙を書いた。
 書き終わると、紀久子はその手紙を敬二郎の遺書と一緒に重ねて畳んで、ふたたび帯の間に差し挟んだ。
「敬さん!」
 紀久子はふたたび、敬二郎の死骸の上にどっと身体を投げかけた。
「敬さん! 許してね。わたしもうすぐあなたのところへ行くわ」
 紀久子はそして、敬二郎の死骸に顔を押し付け、その手を固く握った。紀久子はふと、敬二郎の手に握られているピストルに気がついた。紀久子はそれを取ってしばらくじっと見詰めてから、なおもそこに弾丸《たま》の残っていることを確かめると、唇を噛み締めながらそのピストルを自分の帯の間に差し込んだ。
 紀久子はそして、ある決心の表情を浮かべながら決然として部屋を出ていった
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