て、ふらふらと歩いていった。敬二郎は※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くようにして悶《もだ》え悩みながらただその後を追うだけで、もはや機械のようにして動いている紀久子を抱き止めようとはしなかった。

       3

 紀久子はそして、無感情な機械人間のように吾助茶屋の中へふらふらと入っていった。
「おっ! 紀久ちゃんか? 来たね」
 正勝がぐっと立ち上がって言った。
「お嬢さまですか? 暗いところをよくまあ。炉のほうへ、さあ寄ってくだせえ」
 開墾地の喜代治が頭を下げながら言った。しかし、紀久子はそれには答えずに、魂の脱殼のようにただふらふらと正勝のほうへ寄っていった。開墾地の四、五人ばかりの目は、驚異の表情をもっていっせいにその姿を追った。
「紀久ちゃん! 一緒に飲もう」
 正勝は大きな椀《わん》に酒を注《つ》いで紀久子のほうへぐっと差し出した。紀久子はすると、無表情のままでひと息に飲んだ。正勝も怪訝そうな顔表情を含んで、じっと紀久子を見た。
「紀久ちゃん! 一緒に踊ろうか?」
 正勝はそう言うなり紀久子の肩に手をかけて、足を上げ手を振りながら踊りだした。開墾地の人たちはでたらめな歌を歌いながら、徳利や盃を叩き鳴らした。
「お嬢さまは、いよいよ気が変だぞ」
 喜代治は徳利を叩きながら、傍らの与三|爺《じい》の耳へそっと囁《ささや》いた。
「おれも、さっきからそう思って見てるところだ」
 その時、紀久子がばったりと倒れた。
「どうした? 紀久ちゃん! どうした?」
 正勝は狼狽《ろうばい》しながら屈み込んだ。
「なんでもないの」
「顔色が悪い」
「なんでもないのよ」
 紀久子はそう言って、すぐ起き上がった。
「しかし、ばかに顔色が悪い。帰ろう」
「なんでもないのだけど……」
「どこが悪いんだ。真っ青だよ。帰ろう」
 正勝は狼狽しながら紀久子の肩に手をかけて、静かにそこを出ていった。

       4

 奥の洋室まで、正勝は紀久子について入っていった。
「あらっ!」
 紀久子は驚きの声を上げて戸口に立った。
 ストーブが赤々と燃えていて、その傍《そば》に敬二郎がばったりと倒れていた。胸のところから血が流れて、ストーブと熊の皮の敷物との間の敷板が真っ赤な血溜《ちだま》りになっていた。そして、その手には黒いピストルを固く握っていた。
「死んでいるじゃないか? 自殺をしたんだな? 馬鹿なっ!」
 正勝はそう言いながら、ストーブのほうへ寄っていった。ストーブの傍の小卓の上には、何か手紙のようなものが書き残されてあった。紀久子も黙ってそこへ寄っていった。
「書置きだな?」
 紀久子は黙って、ただその胸を顫わせながら正勝と一緒にその手紙を覗き込んだ。

 最愛の紀久子さん!
 永劫《えいごう》の結合と深遠の愛を誓いながら、流星のように別れていかねばならないことを、わたしは深く深く悲しみます。あなたの愛だけに生きているわたしとしては、もはやこれも仕方のないことです。いまにして、わたしはわたしたちの愛が、開墾地の人たちの血と肉とのうえに建てられてあったことをはっきりと知りました。わたしたちはその血の池のなかに、その肉の山に、永劫の愛を求めようとしたのです。しかし、それは決してあなたの罪でもなく、わたしの責任でもありません。あなたの父上の負うべき一切のものを負わされて、わたしたちの果敢《はか》ない宿命の愛が誤れる第一歩を踏み出したのでした。わたしたちがもしも疾《と》くにこのことに気がついて、わたしたち自身の世界に永劫の結合と深遠の愛を誓ったのであったら、かくも悲惨な袂別《べいべつ》を告げることはなかったでしょう。しかし、わたしたちは愚かにも、開墾地の人たちの血と肉と魂とのうえにその愛を築こうとしたのでした。そしてわたしたちは、あなたの父上の負うべき責めと復讐《ふくしゅう》とを、わたしたちの愛のうえに受けたのです。わたしたちがあなたの父上の遺産に執着するかぎり、当然の帰結だったと思います。そしてなお、わたしがあなたから去ってののちも、もしあなたがその呪《のろ》われている財産に執着するなら、あなたの今後の愛も決して幸福ではなかろうと思います。
 最愛の紀久子さん!
 わたしは最後の言葉として、あなたの今後の愛が、あなた自身の世界に建てられることを希望します。森谷家の遺産はわたしが継ぐべきものでもなく、正勝が継ぐべきものでもないのです。当然、それを受け取るべき人が沢山いるはずです。あなたはわたしがそれを継ぎそうに見えた間はわたしに愛を繋《つな》ぎ、正勝がそれを奪還しかけると急に正勝へ愛を移していきましたが、それは間違いです。財産について回るあなたの愛は間違いです。財産は当然受け取るべき人々にそれを渡し、またそして、正勝との誤
前へ 次へ
全42ページ中40ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング