おやじ》さんの代に、はあ、敬二郎さんという人が約束になっているので、いまさらそれができねえもんだから、敬二郎さんを殺してしまうようなことでも考えているんじゃねえのか? それで、おれたちさ金をくれておいて、おれたちを味方にするつもりじゃねえのかな?」
 喜代治は首を傾《かし》げながら、心配そうに言った。
「それさなあ?」
 彼らはそう言って顔を見合わせた。
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   第九章

       1

 憂鬱《ゆううつ》な曇天が、刺すような冷気を含んで広がっていた。しかし、敬二郎は火の気のないコンクリートの露台に出て、激しい憎悪と不安と憂鬱とに胸を爛《ただ》らしながら正勝の来るのを待っていた。
(いったい、紀久ちゃんはおれと正勝との、どっちを愛しているのだろう?)
 敬二郎はそれを考えると、じっとしてはいられなくなってくるのだった。紀久子が正勝の命のままに動いて、吾助茶屋まで金を届けに行ったことを聞いてからというもの、敬二郎の不安と憂鬱とがなおひとしお激しくなってきた。同時に、正勝に対する憎悪が敬二郎の頭には火の車のように駆け巡っていた。五臓六腑《ごぞうろっぷ》の煮え繰り返るような焦燥に駆られて、敬二郎は夜もろくろく眠ることができなかった。その不眠の焦燥がまた彼の神経をなおも酷《ひど》く衰弱させて、さらに激しい憂鬱と不安との渦巻きの中に追い込んだ。皮膚と筋肉との間を痛痒《いたがゆ》い幾百の虫が駆け巡っているような憂鬱感だった。敬二郎にとっては、もはや生命《いのち》を懸けての決心を持つべきときだった。
(紀久ちゃんを失うことは、同時にまた森谷家の相続権をも失うことだ。紀久ちゃんと森谷家の相続権と、この二つを失ってしまったら、自分にはいったい何が残るだろう? 何物もないではないか?)
 敬二郎はそれを考えて、憂鬱な溜息《ためいき》を繰り返さずにはいられなかった。
(あらゆるものを失って惨めな姿で生きているくらいなら、いっそのこと死んでしまったほうがいいのだ)
 あらゆるものを失ったとき、人間は勇敢になることもできれば捨て鉢になることもできる。
(正勝に会って最後の談判をしてみよう。それと同時に、紀久ちゃんの気持ちも分かるに相違ない。生か? 死か? それからだ)
 敬二郎は固い決心をもって胸を顫《ふる》わせながら、正勝の来るのを待った。彼は顔を伏せて、露台の上をこつこつと檻《おり》の中の熊《くま》のように歩き回った。胸が爛れているばかりでなく、彼の頭の中は火の玉のように激しい憎悪の炎でいっぱいだった。
「おれに何か用かい?」
 突然に露台の下に来て、正勝は怒気を含んで大声に言った。敬二郎は驚きの表情で顔を上げた。正勝はその手に鞭《むち》を握っていた。
「用があるから呼んだのだ!」
 敬二郎の目は正勝の手の鞭に走った。怒気と恐怖とを含んだ目? 敬二郎は爛々《らんらん》と目を輝かしながら、正勝をじっと見詰めた。
「何の用かね?」
 正勝はとんとんと露台へ上がっていった。
「紀久ちゃんを勝手に呼び出したりするのは、よしてくれ!」
 敬二郎は激しく心臓が弾んで、言葉が途切れた。
「きみにはいったい、そんなことを言う権利があるのか?」
「権利があるから言うんだ。紀久ちゃんは、ぼくと婚約している女だ。婚約のある女を勝手に呼び出したりするのは、紳士のやるべきことじゃない。今後はよしてくれ」
「おりゃあ紳士じゃねえよ。そんなこたあおれに言わねえで、紀久ちゃんに言ったらいいじゃねえか? きみの女房になる女なら、何だってきみの言うことは聞くだろうから。しかし、どうも困ったことに、紀久ちゃんはおれの言うことばかり聞くんでなあ。これはどうも、きみにそれだけの威厳がないからなんだなあ」
「なにを!」
 敬二郎は叫ぶと同時に、傍らの腰掛けを振り上げて正勝に打ってかかっていった。正勝はぱっと身を翻して、鞭をぴしりっと敬二郎の向こう臑《ずね》に打ち込んだ。瞬間、敬二郎の投げつけた腰掛けが正勝の肩に当たって落ちた。
「殴ったなっ!」
「殴りゃあどうしたっ?」
 怒鳴りながら、二人は取っ組んでいった。そして、二人は組み付いたままで露台の上を飛び回った。最後に、正勝はとうとう下に組み敷かれた。
「何をなすっているんですか?」
 紀久子が出てきて、驚きの目を瞠《みは》りながらそこに立った。
「およしなさいよ」
 紀久子は敬二郎の肩に手をかけて引《ひ》っ剥《ぱ》がした。瞬間、正勝は自分の身体《からだ》から離れていく敬二郎の鳩尾《みぞおち》に突きの一撃を当てた。急所を突かれて、敬二郎は顔を顰《しか》めながら、まったく闘争力を失った。
「態《ざま》ったらねえ! 馬鹿野郎《ばかやろう》め!」
 正勝は怒鳴りながら、鞭を拾って悠々と露台を下りていった。
(酷いわ! 酷いわ! 
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