そしていったいあの女はおれのなんだ? 心配しなくたっていい、構わねえからどんどん逃げてしまえ」
「では、わたしそうするわ」
 蔦代は決心の表情を見せて、その小さな唇を固く引き結んだ。正勝は妹のその顔に見入りながら、長い鞭をしなしなと撓《たわ》めた。
 紀久子がそこへ戻ってきた。
「あら! よく逃がさなかったわね」
 紀久子は微笑をもって言いながら馬車に乗った。蔦代も正勝も黙りこくっていた。そして、蔦代はまた目を伏せた。正勝は馭者台に直った。
「正勝! では、急いで帰りましょうね」
「ほいやっ、しっ!」
 鞭が陽光の中にぴゅっと鳴った。馬車は煙のような土埃《つちぼこり》を上げて動きだした。そして、市街地から高原地帯の道へと、馬車は走っていった。

       6

 馬車が原始林帯に近づくにつれて、正勝は計画実現の手段について考えなければならなかった。
(馬車を谷底へひっくり返して紀久子と馬とを殺し、おれだけが生きて帰ったとしたら、すぐ疑《うたぐ》られるに相違ないのだが)
 それを考えると、正勝はどうしていいか分からなくなってくるのだった。
 正勝は最初のうちは、自分の生命を懸けてこの計画を果たそうと思っていたのだった。生命を懸けてなら、二人を殺しておいて自分も死んでしまえばいいのだから、機会はいくらでもあった。しかし、それは考えてみると馬鹿らしいことだった。彼はしだいに、敬二郎と紀久子とを殺してしまったあとも、自分だけは安楽のうちに生きていたかった。彼はそれからというもの、絶えずその手段について考え、またいろいろの機会を狙《ねら》った。しかし、正勝は容易にその適当な手段を思いつくことができなかった。そして、最後に思いついたのが、馭者台に熊の出る季節だからという口実で猟銃を横たえておき、敬二郎がそれに対する好奇心からその銃を取ろうとすると、引金に紐《ひも》がかかっているため敬二郎の腋《わき》の下を貫き、紀久子の胸を貫くことになる計画だったのだけれど、それも見事失敗に終わってしまった。そしてさらに、谷底へ馬車をひっくり返すことを思いついたのだが、これについても、彼の計画は相当細かく考えたにもかかわらず、またも支障を来しそうになってきたのだ。
(なんとかならないものかな? 紀久子と馬だけを谷底へ落として、おれは生きていて、そして疑われずに敬二郎の苦悶するのを傍から見てい
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