「しかし、あいつはなんとなく癪《しゃく》に障る奴だからなあ」
「そんなことじゃ駄目だわ。いやな奴なら、それにつけても表面ではよくしてやらないといけないのよ。わたしがあの人と話をしたり一緒に散歩したりするのは、わたしからあの人を遠ざけるためなのだから疑わないでね。わたし、正勝ちゃんの言うことなら、本当になんでも聞くのよ。しかし、あの人の言うことは決して聞かないから。表面ではいやな顔をしないでいて、そして言うことだけは聞かないつもりなの」
「考えたもんだね」
「分かったでしょう? 疑っちゃいやよ。わたしは考えて考えて、考え抜いているんだから」
「しかし、あいつの顔を見ると、何かこう癪に障るね。いやな気持ちを一掃するように、これからひとつ吾助茶屋へでも行ってくるかなあ?」
「それがいいわ。それで、お金はあるの?」
「ないんだよ」
「少しきり持ってきてないのよ」
紀久子はそう言って微笑を含みながら、服のポケットから蟇口《がまぐち》を取り出して正勝に渡した。
「紀久ちゃん! しかし、紀久ちゃんはいつまでもお嬢さんのつもりで敬二郎なんかと一緒に遊んでいちゃ駄目だよ。間もなくもう、森谷家の奥さまになるんだもの、出歩かないで奥のほうへでも引っ込んでいろよ。紀久ちゃん!」
正勝は蟇口をポケットの中へ押し込みながら言った。
「大丈夫よ」
紀久子はそう言って微笑を含んだ。正勝は馬腹にぐっと拍車を入れて、傾斜地を飛び下りていった。紀久子はそれを馬の上から見送った。
(敬二郎さん! わたしを許してね。わたし、正勝になんか決して心を許してないのよ。わたし、あの人が怖いだけなのだわ。逆らったら、あの人はどんなことをするか分からないから)
紀久子はそう心の中に呟いた。そして、彼女の胸はしだいに激しく疼《うず》いてきた。彼女の両の目は、いつの間にか熱く潤んできていた。
(敬二郎さん! 敬二郎さん! あなただけよ。敬二郎さん! あなただけのわたしなのよ。いまになんとかなるわ。それまで許していてね)
紀久子は服の袖《そで》で目を押さえながら、心の中に叫んだ。そして、彼女は傾斜地の上のほうへ目を移した。傾斜地をこっちへ向けて、敬二郎の馬が静かに静かに歩いていた。
(敬さん!)
紀久子は心の中に叫んで、馬腹へぐっと拍車を入れた。馬は傾斜地の上へ向けて飛んだ。紀久子は大声に泣いてぶっつけたいよう
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