ままで隅のほうにそーっと腰を下ろした。その彼女の目には、涙がいっぱいに湧いていた。
 沈黙が続いた。だれも口を利こうとはしなかった。馬車も停まったままだった。馬だけがときどきぴしっぴしっと尾を振って、横腹に飛びつこうとする蠅《はえ》を叩《たた》き落としていた。
「正勝! 何をぼんやりしているの? 急いでいるのに」
 しばらくしてから、紀久子が言った。
「ほいやっ、しっ!」
 鞭がぴゅっと鳴った。馬は習慣的にどどっとふた足、三足を駆け出した。馬車はそして、ごとごとと平坦な道を走っていった。
「蔦や! おまえ、本当にどこへ行くつもりなの? え? 蔦や!」
 紀久子はしばらくしてから訊いた。しかし、蔦代は依然として答えなかった。紀久子は繰り返した。
「どこへ行くつもりなの? 蔦や! おまえはそれをわたしにも言えないの? 蔦や! おまえは、わたしがおまえをどんなに思っているかってこと、おまえには分からないんだね。ねえ? 蔦や!」
「いいえ! それは……それは……」
「いいえ! 蔦やには、わたしがおまえをどんなに思っているかってことが少しも分かっていないんだわ。わたしはおまえを、ただの女中だなんて思ってやしないのよ。自分の妹か何かのようにして、なんでもおまえには、特別にしているのに、それがおまえには分からないんだわ」
「いいえ! お嬢さま!」
 蔦代は唇を引き歪《ゆが》めながら、涙に濡《ぬ》れぎらぎらと光っている目を上げた。
「違って? もしわたしの気持ちが少しでも分かっていたら、わたしに何のひと言も言わずに黙って逃げていくってことはないはずじゃないの?」
「お嬢さま! お嬢さま!」
 蔦代はそう言って目を上げたが、言いたいことが言葉になってこないらしく、ハンカチで目を押さえて啜《すす》り泣きを始めてしまった。
「いいわ! 訊かないわ。蔦や! おまえ泣いたりなんかして、なんなの? おまえが言いたくなかったら無理に訊こうというんじゃないから、言わなくてもいいわ。ただ、おまえのことを心配してわたし言ってるのよ。おまえが言わなくても、わたしはだいたい分かっているんだけれど……」
「蔦代! おまえそんな黙ってなんか出ていかないで、何もかも打ち明けて相談して出ていったほうがいいぜ。蔦代!」
 敬二郎が横から言った。しかし、蔦代はもちろんそれに答えはしなかった。彼女はただ目を伏せて、啜り
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