ないわ。」
 彼女は寂しい微笑みをしながら言った。そして彼女は眼を潤《うる》ませていた。

     七

 吉田機関手は、背広を着て訪ねて来た。終列車が着いてから間もなく、いつものように作業服の姿で来る彼を待っていた彼女には、それが何かしら嫌《いや》な予感を投げつけた。
「あら、今夜は、どうなさいましたの? 背広なんか召して。」
 彼女は眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りながら訊いた。
「やはりナッパ服を着て運転して来るには来たんだがね。ちょっと着換えて来たんだよ。あなたとも、今夜かぎりで、お別れしなければいけないんでね。それにナッパ服じゃあと思って……」
「…………」
 彼女は黙って彼の顔を視直した。彼女は、すべての男との関係がそうであったように、来るべきところまで来てしまったのだと思った。
「僕、急に結婚をすることになってね。考えて見ると、やはりいつまでも独身でこうしちゃいられないから。それで、結婚をすると、機関庫の事務所の方じゃ、変に気をきかして、泊まりの列車には容易に乗務させてくれないんですよ。そればかりでなく、結婚した当座は、夜行列車にも乗務させないし、もうここへ来る機会が無くなるもんだからね。来ても、すぐ引き返す列車にばかり乗務させられるようになるだろうと思って……」
「それは、わざわざ済みませんでしたわ。」
 彼女は軽く頭をさげるようにしながら、寂しい低声《こごえ》で言った。彼女には初めての経験であった。誰もこうしてわざわざ別れを告げに来た男は、これまでに一人だって無かったのだ。
「僕、今夜は、ゆっくり話して、お互いに、心残りの無いように別れて行きたいんだが……」
「え、ゆっくり話しましょう。」
「これはね、お別れのしるしだ。少ないけど、僕だって貧乏人なのだから、これで勘弁してくれ。ほんのしるしだけだ。」
 吉田はそういって、そこへ幾枚かの拾円札を掴《つか》み出した。彼女は驚きの眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、彼の顔を視詰めた。
「僕の気持ちだから、取って置いてくれ。ちょうど十枚あるはずだが、ほんとうは、あなたの病気がしっかりよくなるまで暮らしが出来るぐらいの金をあげたかったんだが、併し、なるべくその金の無くなるまで、ちゃんと直ってくれるといいね。」
「わたし!」
 彼女はそう叫ぶようにいいながら、吉
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