きみには済まないことをしたと心から思っているんだから」
永峯はいくぶんか顔を赧くして、頭を掻きながら言った。
「ぼくもなにも、きみを責めているのじゃないんだ。ただ、きみの持っている思想も結局、本物ではなかったんだということを言っているだけなんだ」
「ほくはきみからそれを言われるのが辛《つら》いんだ。ぼくのあやふやな思想が、態度が、きみを病気にしたのだから」
永峯は吉本の顔を見ないようにして、一塊の鉄のように頑丈な磁鉄製の灰皿へ煙草の灰を落としながら言った。
「そりゃきみ、きみだけじゃないさ。あやふやといえばぼくだってあやふやなんだ。要するに人間なんて一個の偽映鏡だよ。種類はいろいろあるがね。しかし、偽映鏡だよ。われわれは、われわれの環境の中でわれわれという偽映鏡を作られてきたんだ。そして、われわれという偽映鏡は大学を出て洋行して、博士になって、そして死んでいく。これを当然の世界として映していたんだ」
「型どおりにね」
「型どおりに。――ところが、世の中にはこれを当然として映さない偽映鏡もあるんだ。環境によってね。たとえばぼくらが工場へ行ったのだって、少なくともわれわれという偽映鏡のガラス質が、いままでとは違った竈《かまど》の中で異なった偽映鏡に造り替えられたのだったともいえるんだ。だからぼくだって、こうして一人ぽっちになっていれば、またどんな偽映鏡に造り替えられないとも限らないんだ。そういう意味で、ぼくは決してきみを責めやしない。きみがどんな風に世の中を見ようと、永峯という偽映鏡は永峯という偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから。そして、ぼくはぼくという偽映鏡なりに世の中を映しとっているのだから」
「しかしね」
吉本はそれだけを言って深い溜息《ためいき》を一つした。吉本の言葉が永峯には、一つ一つ皮肉に聞こえてくるのであった。
「……しかし、ぼくも、自分の立場が誤っているということだけは知っているんだよ。しかしどうにもならないんだ。いまのぼく自身の鏡で世の中を映しているのではないような気がするんだ。……これをきみ流に言うと、ぼくはぼくの周囲の偽映鏡の照り返しを受けてそれを反映しているだけで、自分の映しとったものは一つとして外面に出していないような気がするんだ。少なくともいまのところ……」
「その、きみの周囲の偽映鏡っていうの、いったいだれのことなんだ?……雅子さんのことかい? それとも雅子さんの実家のことかい?」
吉本は籐椅子《とういす》の中にほとんど仰向きになるほど深々と埋まって、微笑を含みながら言った。
「そう具体的に挙げろと言われちゃ、なんにも言えないがね。きみが偽映鏡の話をするから、ぼくもそれを譬《たと》えに使っただけで……」
永峯もそう言って、今度はまともに吉本の顔を見ながら爽《さわ》やかに笑った。
そこへ、雅子が女中に果物やサイダーなどを持たせて出てきた。彼女は清楚《せいそ》に薄化粧を刷《は》いて、いっそう奇麗になっていた。
「さあ、どうぞ、吉本さん」
彼女はそう言って、彼らのコップにサイダーを注《つ》いだりした。秋川の妹であったころに比べると、彼女はいかにも若妻らしい淑《しと》やかさを見せていた。
「なにも構わないでください。それよりも、雅子さんもぼくらの仲間に入っちゃどうです?」
「え、入れていただきますわ」
彼女は明るく微笑みながら傍の椅子に腰を下ろした。
「永峯! それできみはいったい、いまどんなことをしているんだ?」
「いまは搾取階級なんだ」
「勤めているんだろう? いったい、何をしているところなんだい?」
「これさ。こんなものを拵《こしら》える会社の事務所なんだ」
永峯は爪《つめ》で磁鉄の灰皿を弾《はじ》いてみせた。灰皿は金属的な余韻を引いて鳴った。
「ばかに頑丈なもんだね。売れるのかね?」
「売れるには売れるんだが、どうもその遣《や》り口《くち》が面白くないんでね。いわゆる、きみのいう偽映鏡なんだ。たとえ一万円の儲《もう》けがあっても、決してそれだけには映してみせないんだから。われわれの目から見ると、偽映鏡も甚だしいもんだよ」
「偽映鏡の話はよそう。雅子さんの前で偽映鏡の話をするのはいけない」
「あら、わたしに聞かされないお話なんですの?」
「雅子さんは偽映鏡を知っていますか?」
吉本は微笑みながら言って、磁鉄製の灰皿をしきりに弄《いじ》っていた。
「知っていますわ。あの、変に歪んで映る鏡なんでしょう?」
「吉本! きみこそ偽映鏡に取り憑《つ》かれているんじゃないか? さっきから偽映鏡の話ばかりしているじゃないか? それに、最初に発作を起こしたときも偽映鏡の前に立って、じっと見詰めていたそうじゃないか?」
「ぼくにはあの鏡で、非常に面白く考えられるんだ。あの鏡の中の世界を考えてみ
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