ぼくはきみの情熱を尊敬しているよ。とにかく、ぼくの目指しているところときみの目指しているところは同一場所なんだからね。ただ、その場所へ行くのに、表からと裏からと、その行く道が違っているだけなんだ。大いにやろうじゃないか?」
「ぼくはやります。ぼくは生命を投げ出してやります」
「しかし、前にも言ったことがあったように、テロリズムだけはその場をよく見ないと馬鹿《ばか》らしい犠牲に終わるからね」
「ぼくだって、それは充分考えています。運動のほうへ入って、とにかくぼくはこれからひとつやってみますから」
そして、布川は前田の家を出ていった。
布川のそれからの生活は、工場労働の不平不満を背負うという生活だった。それは白熱している鉄塊に、裸の身体を打ちつけるような生活であった。
しかし、布川はそれに耐えていた。
8
靄! 靄! 靄!
靄の日が続いた。胡粉色の靄で宇宙が塗り潰された。そして、その冷たい靄ははるかの遠方から押し寄せてくる暖かいものを、そこで食い止めていた。くい止めて吸収していた。
靄の中で桜の蕾が目に見えて大きくなっていった。人間の感情もまた、その靄の中で大きくなっていく桜の蕾のようなものだ。街の人たちはもう花見の話をしていた。
靄が濃くなり暖かくなるにつれ、桜の蕾がその中でしだいに大きくなっていくように、人間の感情もまたその雰囲気の中でしだいに膨張する。前田鉄工場の職工たちの感情もまたそうだった。一年前のこの工場の待遇に比べれば、はるかにいいものにはなっていたが、しかし彼らはもはやその待遇に慣れ切っていた。そればかりではなく、生活は雪達磨《ゆきだるま》のように転がれば転がるほどしだいに大きくなるものだ。彼らもまたあの時から、しだいに大きくなってきていた。しかし、あの時よりはよくなり、大きくなってきているということは、必ずしも現在を満足させるものではあり得ない。あの時の彼らの生活が人間以下の生活であったように、現在の生活もまたそれは人間以下のものであった。豚の生活にも、その飼主によっていろいろの生活がある。甲の飼主から乙の飼主の手に移って、ある豚ははるかにいい待遇を受けたかもしれない。しかしそれはやはり豚の生活であって、人間の生活ではない。自分たちの生活が人間以下のものであることを自覚した彼らが、そして一方に自分たちの労働を搾取することによって豪奢《ごうしゃ》な生活を構えている前田賢三郎を見ると、彼らは当然要求すべきものを要求せずにはいられなかった。
前田賢三郎は工場主として、職工たちのその要求を当然のものとすることができなかった。彼は彼自身、職工たちに対して相当以上の理解のある工場主であることを信じていた。そして、彼は職工たちに対してできるだけの待遇はしてきているはずだった。工場主としての自分のそういう気持ちを知らずに、なおこのうえに要求を重ねようとしている職工たちの貪欲《どんよく》を思うと、賢三郎は意地でもその要求を退けてやりたい気がするのだった。
前田賢三郎はその対策についていろいろと考えた。書斎の前の露台に籐《とう》の長椅子《ながいす》を持ち出させて、その上に長々と寝そべりながら彼はその対策を考えつづけていた。
彼の白い手に挟んだ高価な葉巻からは、青白い煙が静かに立っていた。そして庭の隅の、五、六本の山桜はもう咲きかけていた。麗《うら》らかな懶《ものう》い春であった。その麗らかな自然の中で、相闘っている一方の人間が充分の余裕をもってその対策を考えているのだった。
そこへ、しばらくぶりに布川が彼を訪ねてきた。賢三郎は布川を自分の書斎へ通させて、そこで会った。
「やあ! しばらくじゃないか?」
「しばらくです」
布川は油の染みた背広を着ている。それはところどころ破れてさえいた。
「その後どうしているね?」
「このとおりです」
「運動をやっているんだね」
「やっているんです。それで、今日はお金を寄付していただこうと思ってきたんです」
「どこかに争議があるのかね?」
「あなたにも似合わないことを言いますね。争議なら、いつだってどこにもありますよ。しかし、今日はその争議の費用を頂きに来たわけではないんです」
「何をする金なんだね?」
「職工たちに仮装観桜会を開いてやろうと思うんです」
「今年もかね? きみ! いつもいつも柳の下に鰌《どじょう》[#ルビの「どじょう」は底本では「とじょう」]はいないよ。いったいどこの工場だね?」
「前田鉄工場です」
「前田鉄工場?」
賢三郎は怪訝《けげん》そうに顔を緊張させて、その皺《しわ》の中に恐怖的観念を畳み込んだ。
「そんなにお驚きにならなくてもいいですよ。わたしはあなたをどうしようなど思っていないんですから。ただ、お金を頂ければいいんですから」
「ぼ
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