《もが》いた。しかし、その男はその手拭いの端を放さなかった。彼は弥平氏の身体を曳き摺って駆け回った。
「乱暴はよせ! 乱暴はよせ!」
 しかし、そう言って五、六人の者がその男の手から弥平氏を放させたとき、それがどの手から放させたのか分からなくなっていた。そして、弥平氏はもう死んでいた。
「おい! 死んでいるじゃないか!」
「だれだ! いまのはいったいだれだ!」
 もちろん、分かるわけはなかった。同じ七十の顔から、それがだれであるか見分けることのできなかったのはもちろんだった。

       6

 前田鉄工場の職工たちは観桜会のその場から、ことごとく警察に挙げられた。そして、前田弥平氏絞殺のことについては夜を徹して厳重な取調べが続いた。しかし、だれもそれを自白する者はなかった。
「……では、だれじゃないかな? ぐらいの想像ならつくだろう」
 係の警察官はそう訊《き》くより仕方がなかった。
「それが、どうも。七十人近くの人間がみんな同じ着物、同じ顔をしていたものですから……」
「いったい、あの仮装はどっちが考えたのかね? 工場主のほうで考えたのか? それとも、きみたちのほうが考えたのかね?」
「あれは工場主のほうで考えて、必ずその仮装をして出るようにとのことでしたもんですから……」
「分からん! どうも分からん!」
 係の警察官はそう言って、頭を振るより仕方がなかった。
「工場主はいったい、なぜあんな仮装をきみたちにさせたのかね? 何か目的があったのだと思わないかね?」
「わたしたちには分かりませんです」
「どうも不思議だ」
「でも、工場主が職工たちとの間を親密なものとしようとして、花見をしたことだけは分かります」
「それはそうだろう。しかし、なぜあんな同じ仮装をさせる気になったか? どうも分からん」
 結局、そこに挙げてきた職工たちの中から犯人を捜し出すことはできなかった。職工たちと同時に、工場主と一緒だったその家族の人たちも一応は調べられた。もちろん、犯人はそこからも挙がらなかった。
 警察ではそして、その職工たちの中からもっとも過激的であると睨《にら》んでいた七、八人を残すよりほかに仕方がなかった。事件の端緒が間接的にも直接的にも、今度の争議に発しているからである。
 その七、八人の中から、わけても真犯人としての嫌疑をかけられているのは山本《やまもと》と河瀬《かわせ》とであった。山本は前田鉄工場へ来る前にある大さな鉄管工場に働いていて、その工場に争議があったときその工場を経営している会社の社長の自宅を訪問し、社長にピストルを突きつけ脅迫罪の前科を持っている男だったからである。そして、河瀬は前田鉄工場の今度の争議に際して幾度も工場主前田弥平氏をその自宅に訪問し、そのたびに脅迫的な言葉をもって弥平氏と激論していたからであった。
 しかし、この二人の嫌疑者にも、その証拠となるべき充分な何物もなかった。しばらくして彼らも放免された。
 そして、前田弥平氏殺害事件は忙しい社会から、新しい事件の下積みとなってしだいに忘れられていった。警察のほうでもまた真犯人検挙のために注いでいた全力を中止して、その方針を改めなければならなくなってきていた。

       7

 主人の弥平氏を失った前田家では、その鉄工場を他人の手に渡してしまおうという話が持ち上がった。個人でその工場を経営しているばかりに、しばしばのことその家人までがいやな思いをさせられるからである。そして、その工場を手放すことによってかれらの今後の生活は安全らしく、しかも平和らしい殻の中に閉じ籠《こも》ることができそうだったからである。娘の弥生子もまたそれには賛成だった。が、養子の賢三郎はそのことにはどうしても賛成しなかった。
 賢三郎には、前田鉄工場を模範工場にしたい野心があった。従来のいわゆる模範工場ではなかった。彼は彼の中の理想の世界の一部を、その工場に移したいのだった。それは困難な道に相違なかった。しかし、賢三郎の若い野心は新しい時代の社会の要求として、自分の目に映じたその世界をそこに実現してみずにはいられない希望に燃えるのだった。
 そして、賢三郎はこれまでの書斎の生活を離れ、若い工場主として実生活への第一歩を踏み出すことになった。
 ちょうどそのころ、これまで前田家の書生としてそこに寄食していた布川もまた、賢三郎と同じように実社会へと乗り出していくことになった。
「とにかく、ぼくは生命《いのち》を投げ出してやってみようと思うんです」
 布川はそう、賢三郎に向かって言うのだった。しかし、彼には別に自分としての特別な意見があるわけではなかった。彼のそれはただ、賢三郎の常からの言葉を実行に移そうとしているに過ぎないものだった。
「まあ、どこまでやれるか、やってみるんだね。
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