連れてきていた。しかし、彼自身は背広の首に花見の手拭《てぬぐ》いを一本結んでいるだけで、仮装はしていなかった。したがって、そこへ集まってくる職工たちの目には、自分の同志のだれが来ているのかは分からないが、工場主前田弥平の来ていることだけはすぐ分かった。
 仮装の職工たちはそこへ集まってくると、まず工場主のところへ行ってお辞儀をした。前田弥平は鷹揚《おうよう》な微笑でそれを受けていた。職工たちはもしその同一の仮装をしていなかったら、こんな場合、彼の前に行ってお辞儀をするようなことはなかったかもしれない。しかし、同一の仮装のため、もはやだれがだれであるか全然分からなくなっているのだった。そのことが彼らをして、何の懸念もなく工場主に対してお辞儀をさせたのだった。
 前田弥平は豪胆な一面を持っている男だった。仮装の職工たちからそうしたお辞儀を受けるために、自分だけが仮装せずにいるのがすでに彼の豪胆を語っているといってもよかった。彼はそして、職工たちが個人として自分に対する場合、自分に対してどれだけの好意を持っているかを見ようとして、この同一仮装の人間を作り上げたのかもしれなかった。職工側のほうではまた、その仮装が全部同一のものであったために、今日の花見のことを受け入れたのかもしれなかった。いずれにしろ、前田弥平氏の計画の第一歩はとにかく成功したのだった。

       5

 観桜会の場所は、武蔵境《むさしさかい》の小金井《こがねい》であった。同じ青と白との縞《しま》の着物を着て、同じ仮面をつけた六、七十人の職工たちは、ただ一人背広を着ている工場主を取り巻くようにして長い土堤《どて》の上を雪崩《なだ》れていった。
 用水堀の両側の土堤からその中央の流れの上に、桜の花は淡紅色《ときいろ》の霞《かすみ》のように咲きつづけていた。搾《しぼ》りたての牛乳のように微《かす》かに温かで柔らかな空気の中に、桜の花はどこまでもおっとりと誇らかに咲いているのであった。
 花見の人たちはその下を潮騒《しおさい》のように練っていた。幾つも幾つも団体の仮装が通った。喚声が高らかに至るところから上がった。子供の泣き声がした。喧嘩《けんか》があった。急拵《きゅうごしら》えの茶店からは大声に客を呼んでいた。それは花と人間との接触ではなかった。人間と人間との接触! まるで、人間の洪水を見に来ているような
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