ジョン!」
 伜《せがれ》の吉平《きちへい》はそう言ってジョンを呼んだ。
「毛が脱けたのだべ。それにしてもおかしいな? 喧嘩でもして来たんだべ。」
 不思議にジョンの頭は禿げていた。あの焦茶色の天鵞絨《びろうど》のような柔かな毛は削り落とされたように一本も無かった。赤薬鑵《あかやかん》! そんな感じだった。
「清次郎の野郎だ。清次郎の野郎の悪戯《いたずら》に違《ちげ》えねえ。よしっ! 煮干《にぼし》を持って来い。」
 煮干を受け取ると平三は、ジョンを連れて出て行った。ところどころに煮干の小肴《こざかな》を落としてジョンを立ちどまらせ、自分は先へ先へと立った。
 清次郎の家の黒い門の前に来ると、平三は煮干の小肴を五六尾ほど道路へ投げ出した。そして、ジョンがそれを食っている間に、平三は十五六間も先へ走って行った。
「禿《はげ》! 禿! 禿! 禿! 禿! 禿!」
 平三はそうジョンを高声に呼んだ。彼はジョンが自分の前に来ると、そこへ煮干の小肴を投げ出しておいて、今来た路を逆戻りした。そして、反対の方からまたジョンを新しい名で呼んだ。
「禿! 禿! 禿! 禿! 禿! 禿!」
 平三は、ジョンが来ると煮干を投げて置いては、また引き返した。彼は何度も繰り返した。平三とジョンは、清次郎の家の前を幾度も往復した。
「平三氏! 大概にしねえか?」
 禿頭の清次郎が真っ赤になって出て来た。
「俺とこの犬め、すっかり頭が禿げてね。ジョンより呼びいいから『禿げ』と、名を改《か》えんべと思って…… 禿! 禿! 禿!」
「うむ。なんぼでも言うさ。貴様も、そうなるように、竹駒《たけこま》様を祈ってやるから。それだって、俺が祈ったからそんなになったんだ。」
「竹駒? 白狐に、大切な人間の頭を、赤禿げにされていられるかい! 禿! 禿! 禿!」
 平三はしきりにジョンを新しい名で呼び続けるのだった。
 それから二三日して再びジョンの姿が見えなくなった。
 六日目にジョンの死体が発見された。部落の中を流れる用水の下流に浮いていた。最早ジョンの死体は死因を確かめることが出来ぬほどに半ば腐爛《ふらん》していた。別に打撲傷というようなものもなかった。竹駒様の祟《たた》りだ! 部落中《むらじゅう》にそんな噂《うわさ》が起こった。

     三 不思議な繁昌

 部落から六七町ほどの丘の中腹に竹駒稲荷《たけこまいなり》の祠《ほこら》があった。秋は黄褐色、冬は灰鼠の色に、春先は暗紫色になり、そして春の終わりから夏の終わりまでは一色の緑を刷《は》く雑木林の丘だった。雑木林のその単調な色彩に模様づけている若い杉杜《すぎもり》の中に、その白木の祠は見え隠れていた。祠の背後には三本の榎と二本の鼠梨《けんぽなし》の大木が若い杉杜の中に伐り残されていた。前には榊や椿や山黄楊《いぬつげ》などが植えられてあった。鳥より他には声を立てるもののないような、その寂寥《ひっそり》とした森の中から、祠は一目に農耕の部落《むら》を俯瞰《ふかん》していた。
 祠守《ほこらも》りは田舎医者の細君だった。
 最初、夫の病中に彼女は夢を見たのだった。――丘の雑木林の中に一本の大きな椿があり、その下に泉がある。その椿を神体として三週間の礼拝を続け、泉の水を飲んで病夫に呑ませるなら、夫の病気は忽《たちま》ちに癒《なお》るであろう。――という竹駒稲荷大明神の夢枕なのだった。彼女はその夢枕の言葉に従った。不思議に夫の病気は、一枚一枚病皮を剥《は》ぎ取るかのように癒って行った。彼女は早速、その場所に、その椿を親柱として白木のささやかな祠を結んだのだった。同時に彼女はその奇蹟を部落中に流布《るふ》した。彼女は人間の願いを竹駒稲荷大明神に伝え、大明神の言葉を人間に受け次いでやると言うのだった。
 祠は急に賑《にぎわ》い出した。或る農婦の、一昼夜も断続していた胃痙攣《いけいれん》が、その御供物《おくもつ》の一つの菓子でぴったりと止んだからだった。そして森の中には白い二本の大旗が立った。礼拝の人々は絶えないほどになって行った。緑の林の中に、赤、白、青、黄、紫の五色の旗が翻《ひるがえ》り、祠の屋根に黄金色《こがねいろ》の擬宝珠《ぎほうじゅ》が夕陽をうけて光り出した。そして賽銭《さいせん》が祠守りの生活を十分に保証し、山林や田畑を寄進する地主さえあった。
 部落《むら》に移り住んで開業して以来、極めて流行《はや》らなかった湯沢医者は、最も科学的な自分の職業を捨てて、最も非科学的な女房の職業の下に寄食することになったのだった。彼は彼女と一緒に、昔の湯沢医院を捨てて祠の前に移り住んで行った。そして彼は、その豪壮な新邸宅ですることもなく手持ち無沙汰に暮らしていた。
 竹駒稲荷大明神の祠は益々|賑《にぎわ》って行った。あの猟犬ジョンが死
前へ 次へ
全4ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
佐左木 俊郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング