とは結婚はしてもいいが子供ができるのではいやだといったような場合とか、いずれにしても情夫がその裏にいるに相違ないんです。……これまでのいろんな予審調書や判決例を見ても、男の犯罪の裏には女、女の犯罪の裏には男、というようなのが非常に多いのですが、概して若い女の嬰児殺しなどという事件の裏にはきっと情夫がいて、何かやっているのが多いんです」
 若い検事は署長を相手に、自分の観察をそう述べた。署長はそれに対して、口髭《くちひげ》に手を当てながら頷《うなず》きつづけていた。
「それで、その娘の家が近いのならここへ呼んでもらいましょうかね。一応は現場で調べておいたほうがいいですから……」
「その娘はいま、出入り禁止になっているんですから……その家から赤痢患者が出たもんですから……自動車があるんですから、その家までおいでを願いましょうかね?」
 署長は杖《つえ》にしていた剣に力を入れて、凭《もた》れかかるようにしながら言った。
「では……」
「きみ! 案内してください」
 署長はそう言って、駐在巡査に顎《あご》をしゃくった。そして、彼らは二人の人夫をそこに残して自動車の待っているほうへ歩いていった。

     9

 鶴代は青い顔をして庭に立っていた。小さな庭の中で陽にあたっていたらしかった。彼女はひどく驚いた表情を彼らに向けた。
 しかし、鶴代よりもっとひどく驚いたのは若い検事であった。
 若い検事は鶴代をよく知っていた。彼女もまた彼をよく知っていた。彼はそのころ卒業に近かったが、ある下宿屋からまだ大学に通っていた。そして、彼女はその下宿の女中をしていたのだった。若い検事はその当時の、彼女と自分とのいるいくつかの情景を思い出さずにはいられなかった。彼女にちょっと纏まった金を与えて、その下宿から自分の家へ帰らせたのも彼であった。
 若い検事はどうしていいか分からなくなってきた。彼女の犯罪の動機となった情夫! それは取りも直さず自分ではなかったか? 彼女の犯罪の裏に情夫のあることを主張したのが自分であったことを考えて、彼はひどく混乱した。なぜあんな馬鹿《ばか》なことを主張したのか? なぜあの時彼女のことを思い出さなかったのか?
 しかし、若い検事はもはや自分の意見を翻すわけにいかなかった。焼き場で署長らに対して発表した自分の観察を、検察官の立場から押し通さねばならなかった。他人に盛った毒をまず自分が呷《あお》らねばならないような立場を、彼は胸を抉《えぐ》り取られるように感じた。罪に立とう! 彼はいっさいのものに対して目を瞑ろうとした。そして、そのあとから彼の純情が勃然《ぼつぜん》として湧《わ》き上がってきた。彼女とともに罪に立とう!
 駐在巡査が鶴代に何か言って、若い検事の前に連れてきた。随行の書記が帳面を開いた。署長もポケットから手帳を出した。
「あなたは妊娠していたというのか。それは本当かね?」
 若い検事はとくに、あなたという敬語を使って言った。そして彼は目を瞑るようにした。何か恐ろしい言葉が返ってくるような気がしたからであった。しかし、彼女はなにも答えなかった。
「何もかも、こっちの訊くことに対しては正直に答えないと、あなたのためにならないから。……妊娠していたのは本当かね?」
「はい、本当でございます」
 彼女の答えはそうだった。彼は驚いたように目をど瞠《みは》った。彼は、おまえは自分が知っているはずじゃないか? という彼女の言葉を、目を瞑るようにして待っていたのだった。
「そして? 妊娠していたのを、それからどうしたかね? その子供を産んだのかね?」
「産みました」
「産んだ子供は?」
 彼は目が眩《くら》むような気がした。よろよろと倒れそうになるのを、全身の力でようやく踏み堪《こら》えていた。
「その産んだ子供を?」
「…………」
 彼女は彼の顔を見詰めながら、唇を噛《か》み締めるようにしてぶるぶると身体を顫《ふる》わした。彼は目を瞑るようにしてもう一度繰り返した。
「その子供は?」
「産むとすぐ殺してしまいました。済みません。済みません」
 鶴代はそう、低声ながら叫ぶように言って、両手を顔に当てて泣きだした。
「泣かんでもいい。泣かんでもいい」
「…………」
「それで、だれかに殺したほうがいいと勧められたのではないのか?」
「そんなことはありません。自分一人の考えで殺したのです」
 若い検事は、彼女の自分に対する好意を感じないではいられなかった。彼女が自分を愛しているからこそ! 彼はそう思った。彼女とともに罪に立とう!
「しかし、その妊娠させた男が、子供を養っていけるだけのものを出してくれたら、殺しはしなかったと思うが?」
「あるいはそうかもしれませんでした。でも、殺したのはそのためではありません」
「では、その妊娠させた男を憎んではいないというのか?」
「憎んではいます。それはとても憎んでいます。しかし考えてみると、妊娠したのはわたしの勝手も少しはあるのですから仕方がありません。そして、わたしが子供を殺したのとその方は別に関係のないことです」
「では、どうだから殺したのかね?」
「それは、だれも悪くないと思います。いまの社会がそうできているからだと思いますわ。父が失職しなかったら……父が失職しなかったら……」
 鶴代はそう言って、また泣きだした。そして、彼女は咽《むせ》びながら、父の吾平がいかにして失職したかを話した。
「……ですからわたし、今度こそは自分のために自分の身体を売らなければいけなくなったのですわ。それには、子供がいては働けませんし、子供は生きていたってかえって惨めですから……」
「つまり、子供を殺したのはだれのためでもなくって、おまえの父親をそういう風に失職させた社会が悪いというんだね?」
「でも、いまの社会はそういう社会なんでしょうから……だれが悪いのか、わたしには分かりませんわ。わたしを、生きていくのに苦労のないように、監獄へ入れて……監獄へ入れて……」
 鶴代はそう叫ぶように言いながら、そこの地面へくずおれてまたひどく泣きだした。


底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
      1995(平成7)年8月5日初版発行
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年6月6日公開
1999年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
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