って、もはや次の野菜をどうすることもできなかった。
吾平爺は薄暗い小屋の中で寝て暮らした。最初は微《かす》かな風邪らしい熱で、寝るよりほかにすることがないから床に潜り込んだのであった。それがだんだんいけなくなっていった。そして、鶴代のお腹《なか》はひどく膨らんできていた。窖《あなぐら》のような小屋の中で、この不健康な親娘《おやこ》はもはやどうすることもできなくなっていた。一台の荷車を売ったその金が、わずかに二人の生命を繋《つな》いでいるだけであった。
5
しかし、吾平爺の病勢はますますいけなくなる一方だった。爺は何度も便を催した。そして、寝床の襤褸《ぼろ》の底で呻《うな》りつづけていた。最初は自分で便所へ立っていたのが、それさえできなくなってきた。鶴代がそれをいちいち始末しなければならなかった。
「お鶴! 済まねえ、済まねえ」
吾平爺はそう言っては呻りつづけていた。
「済まねえったって、どうにもならねえよう」
鶴代は励ますという気持ちからではなく、目を瞑《つぶ》るような気持ちで言うのだった。
「父《とっ》ちゃん! なんとかして医者を呼ぼうかね? なんならだれかに頼んで、いっそのこと避病院《ひびょういん》にでも入るようにしてもらったらどんなものかね?」
「おれ、苦しくて苦しくて、避病院にもなにも行かれねえわ。それより、水を一杯《いっぺい》飲ませてくんろ」
父親の吾平爺はそう言って、呻りつづけるのだった。
ちょうど、父親の吾平爺がそうして苦しんでいる最中だった。鶴代にひどい腹痛が来た。陣痛であった。
「父ちゃん! おれも腹が痛くなってきたよう。あう、痛くなってきたよう。父ちゃんのが伝染したのかもしんねえよう」
しかし、爺は呻っていてなにも答えなかった。
「父ちゃん! 痛いよう。あう、痛いよう」
彼女は叫びながら、のたうち回った。彼女はそのうちに目が昏《くら》んできた。そして意識が判然としなくなってきた。何か深い深いところへ落ちていくような気がした。
「こっちへ来う! こっちへ来う!」
遠くの遠くから、そんな声がするような気がした。しかし、彼女はそれから間もなく、なにも分からなくなった
鶴代が深い眠りから覚めたのは、その翌朝だった。足のほうに赤ん坊がしきりに泣いていた。そのためか、父親の呻り声は聞こえなかった。赤ん坊のほうへ近寄ろうとしたが、それもできなかった。
「父ちゃん!」
できるだけ大きい声でそう父親のほうへ声をかけようとしたが、腹に力がなくて、声は出なかった。
鶴代は仕方なくじっとしていた。そして父親の呻り声を聞こうとした。しかし赤ん坊の泣き声がうるさいだけだった。その泣き声をただうるさいうるさいと思っているうちに、彼女はまたうつらうつらとしてきた。
彼女が父親の死んでいるのを発見したのは、その翌日だった。しかし、彼女はまだ起きて戸外へ出ていくことはできなかった。それに、彼女の家はただ一軒、藪《やぶ》の中にあった。そして、彼女の家からいちばん近い農家まで行くのに、三、四町(一町は約一〇九メートル)はあった。
彼女が父親の死んでいるのを、自分の家からいちばん近いその農家まで知らせに行ったのは、それから三、四日も経《た》ってからのことであった。
6
吾平爺の死体は村役場の手で始末されることになった。死因は伝染病らしい疑いがあるからだった。その便所に多量の血便らしいものが捨てられてあったので、赤痢に相違ないというのであった。
しかし、村には火葬場がなかった。伝染病患者の死体を遠くの火葬場まで運んでいくわけにもいかなかったので、駐在所巡査と村役場の書記とが立ち会い、墓場の傍《そば》の大きな樫《かし》の木の下の空地で原始的な火葬を行うのが村の習慣であった。
吾平爺の場合はその日まで一度も医師の診断を受けていなかったのだから、したがってなんらの消毒法をも施されていなかったので、その死体の周りの襤褸いっさいもまたことごとく死体とともに焼き捨てられることになった。
同時に、吾平爺のその小屋は完全に消毒された。そして、赤い紐《ひも》がその屋敷の周囲に繞《めぐ》らされ、娘の鶴代は絶対に出入りを禁止された。もし、彼女が父親の病菌を持っていると、火葬も消毒も何の意味もなさないことになるからであった。
吾平爺の死体に点火されたのは、その日の夕方であった。死体の上に藁《わら》と薪《まき》とが積み重ねられ、幾缶かの石油を浴びせてそれにマッチで火を点《つ》けるだけのことであった。駐在所巡査と村役場の書記とは、点火してから三十分ばかりをその火に当たって帰っていった。そのあとに二人の人夫が残って、徹夜してそれについていた。
しかし、明け方になると、二人はその傍でうとうととまどろんでしまった。
「おい! おい! 眠っているのか? 大変なことになったぞ」
和尚が回ってきて、そう言って二人を叩き起こしたのは陽が出てからであった。二人は呆気《あっけ》に取られて、怪訝《けげん》そうに和尚の顔を見た。
「どうもお遺骨らしいものが、二人分あるように見えるんだが」
和尚は首を傾《かし》げながら言った。二人は驚いて立ち上がった。
「二人分?」
「どうも、二人分らしい」
和尚はもう一度首を傾げて、焼き場のほうへ向き直った。
焼き場は一坪ほどばかりが白い灰になっていた。そして、そこからはまだ細い煙が上がっていた。その中に爺の白い遺骨が少し腰を屈《かが》めた恰好《かっこう》で、雨ざれた枯木のように横たわっていた。――もう一人分の遺骨というのは、これは実に小さいものであった。吾平爺の遺骨の片腕ほどもないものだった。兎《うさぎ》の骨と思ってみれば、ちょうどそんな大きさであった。猫の骨と思われないこともなかった。しかし、その骨格がただ小さいというだけで人間の遺骨として疑わせないものがあった。それは吾平爺の遺骨の模型といってもいいほどであった。――それに、もしそれが人間の遺骨ではなく猫とか犬とかいったような動物の骨であるとすれば、焼跡にはきっと尻尾《しっぽ》の骨が魚の骨のような形で残っているはずだった。
「人間の骨に見えないか?」
和尚はもう一度繰り返した。
「どうも和尚さん、これは人間の骨のようですね」
「おめえさんたちは、焼く前によく見なかったのかね」
「なーに、伝染病だっていうもんですから、あそこの娘が出して寄越した襤褸もなにも見ずに、はあ死骸《しがい》と一緒に焼いてしまったんでさあ」
年寄りの人夫がそう答えた。
「それがいかんのだね。それが過ちの因《もと》というものだ。これはとんだことになっちまったもんだ」
「和尚さん! この小さいのだけ、どこかへ捨ててしまったらいけないでしょうかね?」
若いほうの人夫が当惑そうな目で、和尚の顔を見ながら言った。
「とんでもない! 人間のお遺骨をそんなことしたら、それこそ罰が当たるというもんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいんですかね?」
「とにかく、駐在所が立ち会うことになっているんだから、すぐ駐在所へ知らせなくちゃあ」
「おい! おめえ行ってくんろ。ようく旦那に事情を申し上げてな」
「とにかく、来てみてくれって、呼んでくらあ」
若い人夫はそう言って、墓場の中を駆けていった。
7
駐在巡査の来るまでには、相当の時間があった。駐在巡査は若い人夫から聞き取ったままを電話で一応本署のほうへ報告しておいて、それから現場に来たのだった。
「吾平爺さんのところには、小さい子供はいなかったかな?」
駐在巡査は歩み寄りながら大声に言った。
「あそこには十八、九の娘が一人いるきりで、小さいのはごぜえませんでした。なにしろ、その娘の母親が死んでから、十年近くにもなるんですから」
年寄りの人夫がお辞儀をしながら言った。
「じゃあ、いったいどうしたというんだろうなあ」
「それで、猫か何かの骨じゃないだろうかって、いま話していたところなんですがね?」
「いや、やっぱりこれは人間の骨だろうなあ」
駐在巡査はそう言って、そこにしゃがみ込んだ。
「……その娘は、妊娠はしていなかったのか?」
「東京から帰ってきたときにはそんな噂もちょっとごぜえましたがね、でも、それからは身体《からだ》の具合が悪いとか言って、寝てばかりいたようでした。見かけたこともごぜえませんでしたし、何の噂も聞きませんでしたから……」
「ことによるとこりゃあ、その娘の子だぜ。堕胎をしてそれを隠匿したのか、でなければ、産むとすぐそれを殺してしまったのか」
それにはだれも答える者がなかった。そんな風にも、考えていけば考えられることだったし、何かそこに特別の不思議なことがあるのではないかというようにも思われるからであった。
「なーに、いまに本署から医者が来るから、これだけちゃんとした証拠があれば、すぐ分かるよ」
駐在巡査はそう言って、手についた灰を叩き落としながら立ち上がった。
8
警察署から巡査部長と警察医とが自動車で出張してきたのは、それからしばらくしてからであった。
警察医はその小さな遺骨を、嬰児《えいじ》の骨格と鑑定した。
「それで、女というものは子供を産んで、幾日ぐらいまでならこの女が最近子供を産んだか産まないかということが分かるんです? 最近なら分かるんでしょう?」
駐在巡査はそう警察医に質問した。
「そりゃあ、もちろん分かるには分かります。しかしそうまでしなくても、一般に女は非常に感動しやすいですから、その死体なり遺骨なりを目の前へ持っていくと、その時の表情や何かですぐ分かりますよ」
「はあ、そういうもんでしょうね」
駐在巡査はそう言ってから、巡査部長の前にふた足ばかり歩み寄った。
「部長! だいたいの目星はつきましたよ」
駐在巡査はやや低声《こごえ》で言った。
「火葬にした男の娘というのが、どうも妊娠していたらしいんです。それがなんでもないんですから、こりゃあその娘の産んだ子に相違ないと思うんです」
「それでは、その娘が確かに妊娠していたという証人があるだろう?」
「そりゃあ、あるでしょう」
そこへ人夫が寺から茶を運んできた。
樫の木の下に集まってみなが茶を手に取ったとき、すぐ近くで自動車の警笛が鳴った。警察署長と地方裁判所の若い検事が書記を伴って、現場を臨検に来たのだった。
しかし、残っている問題は鶴代がなぜその嬰児を殺したか? ということであった。彼女が自分の産んだ嬰児を殺したのだということについては、もはやだれも疑いを持たなかった。
検事はまだ非常に若かった。彼は大学を出て就任したばかりであった。本来なら、彼はまだこういう現場へは臨検に来るべきでなかった。ただ、裁判所の都合と、彼の好奇心と、事件がそれほど重大視すべき性質のものでなかったのとの、この三つの偶然が彼をここに臨検させたに過ぎないのであった。しかし、一応調べなければならなかった。そして、その犯罪の動機についても考えてみなければならなかった。
「どうも、この犯罪の裏には情夫《おとこ》があると思うんです」
若い検事はみなの観察や意見をひととおり訊いてから、それを総合してこう断定した。
「……確かに、その娘が自分の子供を殺したのだというのなら……」
「それはほぼ間違いのないところです。なにしろ、妊娠していましたのがいまではなんでもない身体になっているんですから、産むと間もなく殺して父親の寝床の中へ突っ込んでおいたのじゃないかとも思うんです。あるいは、父親のほうが先に死んだのかもしれません。だれも、いつ父親が死んだものか、いつ子供が産まれたものか、全然分からないんですから」
駐在巡査はもう一度繰り返して説明した。
「それで父親と娘との間に、なにか変な噂などはなかったのだろうね?」
「それはなかったようです」
「では、確かにこの裏には情夫がいるに相違ないですね。……その娘を妊娠させた男が世間に対して恥ずかしいという気持ちから、娘を唆して殺させた場合と、またはその妊娠させた男ではなく、その娘
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