だった。
吾助爺はこの洪水のような雑踏の中を押し切って、毎朝|神田《かんだ》の青物市場へ野菜物を満載した荷車を曳いていくのだった。
2
青バスが爆音を立てながら徐行を始めた。二、三台のタクシーがその後へつかえた。貨物自動車が停《と》まった。吾平爺はその煽《あお》り風を浴びて、自分の重い荷車が押し倒されるような気がした。爺は事実、よろよろとふた足ばかりよろめいた。
「どうしたってんだい!」
敷石道のほうへ荷車を引き寄せながら爺は怒鳴った。
貨物自動車や市営バスやタクシーは、二十間(約三六メートル)ほど先の交差点のところからつかえてきていた。そこには、群衆が真っ黒な垣をぎっしりと作っていた。
「何があるってんだい? お祭り騒ぎべえなくさって!」
爺はもう一度そう怒鳴って、そこに立ち停まった自動車の間を縫ってようやく前のほうへ出ていった。青物市場の出場時刻が切れるので、爺はうっかりしていることができなかった。
「どうしたんだね? 何さまがお通りになるのかね?」
ようやくその人垣の背後まで辿《たど》り着いたとき、吾平爺はそのいちばん後ろに立っている一人の学生を掴《つか》まえて訊《き》いた。
「そうじゃないんです。今日ここで、活動の俳優を呼んだんだそうです。それでみんなこうして、その俳優の来るのを待っているんでしょう」
「活動の俳優って、つまり、活動の役者だね?」
「ええ、それに、外国の有名な活動俳優も来るとかいうので……」
「いずれにしろ、それじゃ大したこっちゃねえわけだね? おれ、何さまかのお通りだと思って……役者っていやあ、なんでえ、芸人じゃねえか。じゃ……」
爺はそう呟《つぶや》いて、その人垣を打ち破って通り抜けようとした。だが、それは容易なことではなかった。その人垣は交差点の角に空を覆うて建った大百貨店の前から、幾重にもなって街上へ氾濫しているのであった。ちょうど街路を一つ隔てた向かい側に、同じような百貨店の大建築が出来上がり、その開店大売出しが今日だというので、こっちでも負けずに客を取ろうというのであった。建物全体をイルミネーションで包み、飾窓には、これから顔を見せにくるはずのシネマスターの大きな写真が何枚も貼《は》り出されてあった。そして、都合によっては来朝中の某国映画俳優も来てくれるはずになっているということが群衆の噂《うわさ》の焦
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