然自分である。少しも他人を交へぬ自分の全人格である。一杯に自分を表すならば版画は必然自刻せねばならない。此の立場から他人に彫らせると云ふ事は如何な場合でも無意味である。自分の画に他人にない自分の生んだリズムがある、筆触がある、如何にいゝ彫刻師でも、如何程巧で忠実に彫つても自分とは縁の遠い物である。
 自分以外に自分の画を自分程知つて居る者はない。其画に他人が入いれば全人格の自分の画ではない、技工も必然に生れるのである。木版特別な独殊な気分も、気持を表す印刷も要するに財料手段である、第一義の者ではない。而して自分は趣味の人間ではない、自分の画は版画にしろ、油絵にしろ、デツサンにしろ、自分の苦闘の戦利品である。自分の生な生活の其時々、セクシヨンブある、自分の悲壮な人間のライフの生長の証拠である。材料は異つても、画は同じである、然し自分は時々経世の為に、自分を職人にする、労働して居る、それで板を彫る事も自分には労働である。
 其時々、表はすに最も都合のいゝ材料手段を取る、そして自分は木版が好きである。
 自分は木版に殆ど下絵をしない。
 ドローイングをやる時や、写生する時、よく版を全部黒く塗
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