氷り附いてゐる。それを囓る。
しかし風當りの強い崖で首の出せる場處に來て遙か下を見下ろすのも心細い。空から上から下から横から吹き付ける雪。それを殊更に強調する樣にいきなり横つらから目に掛けて厭と言ふ程撲り付ける雪の塊と竹の葉。風の中で息をするために鼻と口とに手を翳す。片手で手頼りにしてゐる竹が無暗と搖れる。雪の凍り付いた眼金を外して舌で甜める。體が冷えて來る。堪らないので又雪の下に潛り込む。我無遮羅に攀登る。樹がある。捉まるとぽきんと苦も無く折れる。藤蔓を試しに引張る。
頂上から向ふは急な崖だ。竹を兩側に掻込んで足をぶらさげる。股倉に何本かの竹がはさまる。その竹に片腕を掛けて脚を脱いで復ぶら下がる。
竹が無くなる。樹から樹を覗つて飛んで行つては抱き附く。抱き附いた樹が生憎枯れて居て勢のために大きな枝を着けた儘轉がり出す。小枝が眼に這入る。雪の粉を飛ばして轉がる。
斜面が來る。樹の一本もない斜面だ。尻を雪に埋めて兩足を前に出して辷る。兩臂で舵を取る。途中の小さな樹に片脚が掛かる。股が裂けさうになる。片手で樹に捉まる。それでも止まらずに轉げ落ちる。成るべく大の字なりになる。それでも止まらない。しまひに谿川に首と手を突込んで止まる。岩に足をふん張つて持つて來たキヤラメルをしやぶる。
斯んな事をして歸つて濃い熱い茶を飮んで甘い蒸菓子を食べるのが一番いい冬の暮し方なのです。家の建築が粗末なので酒の飮めない私にはぢつとして居たら凍え死んでしまひさうなのです。部屋の中にゐても耳まで凍るやうなのです。壁は荒壁一枚張です。屋根は木つ葉に石を載せただけです。俗に壁通しと極寒い日を言つて居ます。隙だらけの壁と隙だらけの木つ葉の[#「木つ葉の」は底本では「木つ菓の」]間から粉雪が家の中に降り込んで、場所によつては相當積もるのです。
いきなり冬を見た私は土地の人の風俗の質素なのに感心しました。夏になつて驚嘆したマイヨオルの作つたもののやうな脚のしつかりと地に着いた體格の女が、寒氣を防ぐためにありつたけの襤褸で武裝して、色の褪めた大シヨオルを頭からかぶつて素足に藁草履で歩いてゐるのです。虱は大抵の娘には附物です。シヨオルをかぶつて居ない女はマントを着てゐます。從つて私の女に對する好奇心は足にだけ集中されました。鋼鐵のやうな彈力を持つた引き緊まつた足首か、青銅のやうな重みのある足を持つてゐないものはありませんでした。東京附近の平原に住む女のやうに練馬大根のやうな細い太いのない足は見當りませんでした。
男は新潟で見たやうに外套を二重に着て居るのは見掛けません。足駄の爪掛に毛の着いたのを着て居るのは相當見掛けますが、外套の襟手首などに毛皮を着けたのは一寸見て餘處の土地から來たと感じさせる位で皆無と言つて宜しいが、外套には、女のマントも同樣ですが、必ず頭巾が着いて居ます。外套の丈もマントの丈も殆ど踵まで屆くほどの長さです。
來客があると炬燵のある部屋に案内する。客は遠慮なく炬燵に膝を突込む。炬燵の外に火鉢も出ると言つた調子です。
暖い日の週期が土地慣れない私には却つて辛く感ぜられました。暖い日の間に少し油斷の出た神經を更に復新手の寒氣が襲ふのです。そしてその寒い期間は晝夜の分かちなく冷えるのです。東京では寒く感じたりつめたく感じたりするのが、相川ではただ冷えると感じるのです。坐つて居る疊から骨を傳はつて全身を内部から冷やすのです。一枚の大きな石英岩を土臺としてゐる相川は家の柱の土臺石から凍り切つた地盤一面に總べての生物の温みを吸ひ取るのではないかと思はれるのです。霜柱一つ立ちません。温い日の間に溶けた雪が眞つ黒な板となつて甲鐵のやうな道を覆ひます。晝日中室内に居る人の鼻や口から絶えず煙草を吹かす人のやうに白い煙が出て居ます。東京ならば寒い戸外を急いで歩く時皮膚の表面は如何に冷くとも體内に抵抗力が潛んでゐて、室内乃至風の來ない日向に來れば反動として温かく感ずると言ふことがあります。相川ではさう言ふ樂しい豫想は全然ないのです。私のやうに酒の飮めない人間に取つては入浴と山登以外に體を温める方法はないのです。
その湯がまた有難くない湯です。湯屋の數は町不相應に澤山ありますが最近に警察から命ぜられたとかで一軒例外の家が出來ましたが、それまでは全部湯屋湯屋で一日交代に立てるのです。午後三時から立つのですが、夜行くと湯船の底に臭い生温の水が膝つきりしかないのです。上がり湯は既に水になつてゐます。女湯と男湯とはすぐと上の方まで、もつとも天井は低いのですが、全然別に仕切られてゐます。湯氣がもうもうと籠もつて暗い電燈を包むのです。湯船もながしも石とコンクリイトです。湯垢が窪み窪みに溜つてぬるぬるして居ます。その上に板つぺらが投出してある。その板に尻を乘せてふちのすり減らされたぬるぬるの桶で體を洗ふのです。石鹸を生まれてから一度も使つたことのない人も居ます。知人に逢ふと東京ならば流しませうと言ふ處を掻きませうと言ふのです。文字通り爪で脊中の垢を掻き合つて居るのです。桶が今言つた通りなので男でも湯屋に金盥を持つて行く人が相當にあります。寒中でも上り湯がぬるいためか大抵の人は水を浴びてゐます。湯屋によると門口の戸一枚で中じきりの戸を寒中でも付けない家もあります。
湯に入る前に體をしめす習慣もありません。女湯で歌をうたつてゐるのが聞かれます。
歌の好きなことは他の町に比類がないかも知れません。年中町の到る處で男女の歌が聞かれます。おけさ、安來節、追分などが重なもので都都逸二上り新内のやうなものは滅多に聞かれません。中山晉平氏、本居長世氏のものも相當歌はれて居ます。女が一日働いて夜更けて友達を訊ねて歌ひ合ふ風もあります。芝居小屋の小さなのがあります。碌な役者は來ませんが浪花節だけは相當のものが來ます。いつも相當の入りを取ります。
歌と踊の好きな町民が思ふさま歡樂を盡すのはしかし夏を待たなければなりません。
四月に這入ると雪が雨になります[#「なります」は底本では「なるます」]。雨になるに連れて降る時間が一日の中の僅な時間だけになります。そして一日の中の何時間かは必ず日が照るやうになります。五月に入るとからりと晴れた日さへ見られることがあります。雪割草の淡紅から深紅乃至紫までの花が谿間に咲きます。次に岩鏡の紅色の房が艷艷した葉を覆ふやうにして咲きます。あまどころ、えんれいさう、その他名の知れない森林植物が咲きます。少し注意深いものには容易く雙葉葵の葉蔭に芳つてゐるのを發見することが出來ます。
死んだやうに成つてゐた櫻や梅が急に芽を出して花を咲きます。東京の植物は落葉の時に既に小さな芽を落ちた葉の痕に持つてゐます。相川の植物は急激に襲ふ寒氣の爲に樹の表面は盡く死んでしまふものと見えて、冬を通して風當りのない谿間ではその葉を落としません。腐りもせず、落ちもせず恐らく黄葉もしなかつたらうと思はれる形で、青葉の儘毒を注射されでもして死んだのではあるまいかと思はれるやうに、その儘の形で枯れて枝についてゐるのです。恐らく堅い甲冑を着けてゐない枝の先は表面の皮の底まで通る寒さのために枝ごと死んでしまふのだらうと思ひます。どの樹も春になつて始めて生き殘つてゐる[#「生き殘つてゐる」は底本では「生き殘のてゐる」]部分から芽を吹くのです。本當の新芽から出る花や葉は實際に新鮮な色をして居ます。
紅の花が濟むとたんぽぽ、きんぽうげ[#「きんぽうげ」は底本では「きんぽぽうげ」]、その他名の知れない黄色の花が咲きます。
それがすむと藤と桐との紫です。紫の花が咲き揃ふときは新緑がやや深くなりかけた時です。
それから六月。眼まひのしさうな強烈な日光。黒い上一面に鼠色の泡を吹いてゐた海がいつの間にか藍色に染まつてゐる。山の急な斜面と海の平面とで作つた狹い空間に有らむ限りの日光を直射させるために、よろひの胸板のやうに平板な緑が空間のエエテル全部を荒い振幅で捩動させて居るので、何方を見ても景の遠近がなく總べてが生の色で人の顏を打つ。
午前は凡ゆる陰が紫、午後は代赭色になる。午前の濃い藍色の海は正午にほんの僅磨き上げた鋼鐵の色を呈するだけで直ちに白緑とコバルトとロウズマダを流し合はせたやうになる。三つの色が絶えず右に流れ左に流れて交化する。岩の多い海藻の種類に富んだ海は岩と岩との間を黄に染め赤に彩り緑に染める。錨山の金鑛を碎いた水がその一部に乳色したうす紅を流す。
毎日毎日の落日の變化。きんを流し、血を流す。或時は町一面を紅梅に染める。或時は緑の頂に燈かと思ひ違へるやうな朱を點ずる。
天鵝絨の上にパステルで描いたやうな柔らかな朝。
赤と強い黄の萱草が咲く、海を渡つて牛の草喰ひに行く島の横腹に。紫陽花が咲く、岩蔭の濃い緑の中に。
斯うなると殆ど毎日毎日晴天續きです。
あちこちの小學校中學校女學校で運動會が毎日のやうにある。町の村の婦人會の處女會の青年會のと引きつぎ引きつぎ初まる。レコオドコンサアト。オペラの出來損ひ。講演會。學藝會。追分會。おけさ會。プログラムは殆ど毎日を埋めて居る。
七月に入るとお祭りが初まる。全島青年の競技會がある。
十三日が相川町恩賜金記念日で町の有志の宴會が晝夜の二囘あるその翌日が鑛山祭です。
鑛山で出來た町、鑛山で出來てゐる町、鑛山で食べてゐる町ですから、鑛山で東京の太神樂を招んで囃し立てるは勿論、町中の老若擧つて町中を踊つて歩くのです。唄はおけさ。島中の藝者が相川に集合して先頭となつて三味を引いて行く。それが幾組となく後から後から續く。太鼓、皷、笛、ブリキ鑵まで出る。馬車の喇叭まで出る。假裝のもの、印半纒のもの、浴衣のもの、多くは繰り拔いた窓のある編笠を目深にかぶつて。臨時の飮飯店が出來る。臨時の藝者の置屋が出來る。これが三日三晩續くのです。
引續いて方方の盆踊がある。させ踊、稻扱踊、念佛踊、音頭踊。其他色色の踊があるやうです。
昨年までは越後に面した村で男女の媾合に象たつ踊があつたさうです。
私が始めて佐渡に渡つた時馬に蹴られましたが、佐渡の馬のよく蹴るのは、相川から南の峠を越した向ふの土地、相川の人の所謂ぜえ――在の意味です――の祭で馬の蹴合ひをやらすからだと聞きました。
相川の北の海府では、最近までは男女共褌一つで踊つたさうです。男も女も六尺褌一つだつたさうですが、女だけは一方の腰にきれの餘をだらりと下げたさうですが、米の値の出た時から贅澤になつて着物を夏でも着るやうになつたのだと土地の人が聽かせてくれました。(以上十三年八月、東京で)
底本:「明星」「明星」發行所
1924(大正13)年10月
初出:「明星」「明星」發行所
1924(大正13)年10月
入力:江南長
校正:小林繁雄
2009年5月3日作成
2009年6月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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