てもあまり見當らない處です。熊も居ず、猿も居ず、鹿も居ず、僅に兎と雉と蝮と蛙と馬追とこほろぎと岩蟲と女の兒の頭と襟とに住む虱と、道路の捨石の下にまで住む蚤と、何處の家の食膳にも止まる蠅と、虻と、笹でうまつてゐる海岸の切岸に住む雀と、山の岩で數町さきの異性と鳴き交はす鳶と、濱に來て犬をからかふ烏と、魚賣の手に寄生する水蟲と、人の數に匹敵する猫とその猫の取りきることの出來ない鼠と、まづその位の動物しか人間以外にはゐない處です。
その中で貉は佐渡の名物ださうで、四國猿と同じやうに佐渡貉と言ふのは熟語になつてゐるのださうです。
佐渡の貉は本來此島の産ではなくて、金山の鑛石を鎔かす鞴のにその毛皮が是非必要なので、餘處から取つて來て島の山に放したものだと言ふ話です。
能登と岩石の分布が酷似してゐることや、昔謙信が能登で金を採つたことなどを考へ合はせて、能登半島が本州の一部であるにも拘らず狐が居ないで貉だけがゐるのも何か地質や植物との關係もあるのではないかなどとも考へさせられます。
土佐には狐が居ないために、狐憑がなくて犬憑と言ふのがあるやうに、此處でも狐憑はなくて貉憑があります。
貉の親玉團三郎は妖術に於いては日本一ださうです。昔日本一の妖術の大家が越後に住んでゐたさうです。名は聞き洩らしましたがとにかく狐だつたさうです。それと團三郎とある時術較べを爲ようと言ふことになつて、江戸へ出たさうです。どちらが先に術を使ふかと言ふ事を籤できめることにしましたら、團三郎の方が先へやることになつたさうです。團三郎は、それでは俺は明日の朝これこれの刻限に大名となつて素破しい行列を作つて登城するから見に來てくれと申しました。佐渡狐が翌朝町人に化けてお濠畔へ行つて待つてゐると梅鉢の定紋をつけた駕籠に乘つて大勢の家來を後先に付けた行列が通りました。つかつかとそばへ寄つて、駕籠の中を覗いて、おい、團三郎、さう威張り臭るなよと言ふが早いか、駕籠わきのものが驅け寄つて一刀の下に切つてしまつた[#「切つてしまつた」は底本では「切つてましつた」]さうです。切つて見ると古狐が死んでゐる。白晝のこととて大騷ぎをしたと言ふことです。これは團三郎が豫め加州の登城の時刻を知つて斯くあれかしと謀つてした事でして、其以來團三郎は妖術にかけては日本一と言ふことになつたのださうです。
團三郎だかどうだか知りませんが、今年の春頃、丁度私の宿の近くで雨の夜ごとに僧形の見知らぬものが火の番とすれ違つたさうです。振りかへると姿が見えないと言ふので正しく貉に相違ないと申して居りました。
その前にも二つ岩附近に坊主が出ると言ふ評判がありました。
十月十四日の晩の七時半ごろ山越しに南の方から相川へ戻つて來ますと、丁度もう四五町で相川へ入らうとする、山のおり口で一人の中學生が藁を積んだ處へ何遍も衝突してゐるのに出喰はしました。聲をかけても夢中で藁と衝突をして居ります。やうやく手を引いて路へ出しますとまだよろよろして病人のやうでした。暫く歩かせてから眼も見え足元もたしかになりましたが、私の連は貉がついたのだと申して居りました。
貉のせいかどうか知りませんが、此處には鳥眼がかなり澤山あります。眼の瞼の爛れたのも澤山あります。斜視もざらにあります。濱で採れる若芽を鹽いりにして佐渡芽と稱して賣つて居りますが、越後の人は佐渡の眼病を佐渡目と言つて居ります。此腐れ眼は冬から春までの間に殊に非道くなるらしいのです。縣ではこの眼の惡い原因を花柳病か蒸風呂のためだと考へてゐる樣で、蒸風呂はなるべく禁止して居ります。
蒸風呂と言ふのは鹽の上に藁で出來た大きな袋をかぶせて上から熱湯を注いだ中に人が這入つて蒸されて柔くなつた皮膚を爪で掻いて垢を落とす裝置でして、田舍では今でもこれを行つてゐるので、今の郡長が巡視に行つたときわざわざ風呂場を庭の一隅にこしらへた家もあつたと言ふ位です。人が中に這入つてゐるとも知らずに上から湯を掛けて大火傷をさす事も屡あるさうです。
眼を惡く爲さうな原因は外にも澤山あります。第一に冬になると日光に惠まれない、ただでさへ暗い建築の家は締切りになる、加賀邊の家のやうに天井から明を取るやうにも出來てゐない、さう言ふ處で炬燵に當つて日を暮らす。夜になると穴藏の底のやうな照明力の電燈が僅かに赤味を帶びた色に照るだけです。斯んな事も第一の原因でせう。それに冬になると全然野菜が缺乏します。稀に少し穩な日に三里ばかり南から野菜を賣りに來ることがあつても恐ろしく高い。魚ばかり食べて居るからではないかと思ふのですが、それに雪でいぢめられるからかも知れませんが、冬の終に近づくと毛の色がまるで赤く埃でも浴びたやうに澤の拔けた頭をした女ばかりになります。それが夏を越した今時分になると見られなくなるので
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