ありますが、その時分にはまだところどころに雪が殘つてゐました。相川の磯から一時間ほどで行ける處です。青野峠と言つて、相川から金北山に登る順路です。初て行つたときには磯際のほかには平地は勿論なだらかな場處さへ見當らない相川の附近に斯んな圓圓した柔かな感じのする廣い場處があつたのかと驚きました。北の方にごく僅な視角で金北山の手前の妙見山が見えます。西の方の谷あひから遙に相川のほんの一部が見えます。南の方は相川の南の二見半島から深く入り込んだ鏡のやうな眞野灣、灣の向うからずつと左まで低く連つてゐる南佐渡の山、それが東までまはつて盡きた處に佐渡の東岸の兩津港――夷と湊との二つの町の合併した町――が見えます。南佐渡の山と青野峠まで南に進んで來てゐる北佐渡の山との間は佐渡唯一の平原國なかの平野です。長さが東西三里半、幅は一里半、西の外れに長さ一里幅が廣い處では半道ほどある湖があります。濱名湖のやうに海に開いてゐるその口の兩方を裏表のふた町しかない細長い町で塞いでゐるのが夷と湊なのです。
二十三日に味をしめた私は二十八日に重ねて登りました。天氣が一層好かつたので南佐渡の山の西に越後の彌彦山、更に西に更に幽かに能登半島が見えました。二十三日に登つたときから、もう栗を取りに人が行つて居りました。二十八日の後では十月二日に登りました。この最後の日でもまだこぼれてゐる栗はないやうでしたが、性急な土地の人は樹をゆするやうなことはせずに棒で枝ごと叩き落として、或はうちへ持つて歸り、或は町へ賣りに出るのです。
一體佐渡と言ふ處は何でも小さく出來る處でして、青野峠附近から南にも北にも島全體に亙つて燒印を押して放牧してある牛も犢ほどしかなく、大根も東京邊の四分の一ほどしかなく、林檎の直徑がほぼ半分、桃も三分の一ほど、牛蒡、葱すべてその調子で、人間だけが折折づぬけて稀には六尺豊なのも居る處ですが、栗も此例に洩れず柴栗ばかりで、その中でやや大きいと言つても支那の甘栗よりも少し小さい位のをばんばん栗――恐らく丹波栗の訛でせう――と言つて居ります。
二日のときは、峠から山の脊づたひにお晝頃までかかる場處へ行つて、谿間の浮島のある池へおりました。通草が口を開けて居ました。楓と鉤樟とは完全に紅と黄に染まつて居ました。山の脊は大部分丸剥げになつて居ます。池のある谿間へおりる東側の急勾配にも[#「急勾配にも
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