、全右之御|蔭《かげ》を以|活動《くわつどう》を得候次第、折々亡父よりも申聞かせ候儀に而、何卒御返濟いたし度、色々手段を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《めぐら》し候得共、頓と御返|辨《べん》之道も不[#二]相付[#一]候|而已《のみ》ならず、利息さへも纔《わづか》一年|位《ぐらゐ》差上候|而已《のみ》にて、何とも無[#二]申|譯《わけ》[#一]仕合に御座候。就而は此度歸省に付而は、是非亡父の思ひ煩ひ居候義を相解《あひとき》度|念願《ねんぐわん》に御座候而、元利相|揃《そろへ》差上候こそ相當の譯に御座候得共、只今|迚《とて》も多人數の家内を相抱《あひかゝへ》居候上、全|無高《むたか》之事に候へば、十分之義も不[#二]相|調《とゝのは》[#一]候に付、何卒右|邊《へん》之處御憐察被[#二]成下[#一]度奉[#レ]希候。右に付而は、本金貳百兩之|場《ば》に、數十年の利息相掛り候得ば、過分の金高に及候義に御座候得共、右等之處宜敷御|汲取《くみとり》被[#レ]下、纔に貳百金丈、只利息之心持を以御肴料に差上候に付、是を以返濟之御|引結《ひきむすび》被[#二]成下[#一]候へば、重疊《かさね/″\》大慶之仕合此事に御座候。然れば亡父之|靈魂《れいこん》をも安ぜしめ申度御座候に付、其節差上置候|證文《しようもん》、御返被[#レ]下候はゞ、亡父へも右之首尾相濟候儀を申解《まうしとき》候半歟と相考候付、宜敷|御了解《ごれうげ》被[#二]成下[#一]候處、偏《ひとへに》奉[#レ]希候。いづれ參上仕候|而《て》、得《とく》と可[#二]申上[#一]筈御座候得共、纔|中《なか》兩日之御滯留に而、迚《とて》も罷出候儀不[#二]相叶[#一]候に付、以[#二]書面[#一]申上候間、旁《かた/″\》御汲取可[#レ]被[#レ]下候。頓首。
  六月廿三日[#地から2字上げ]西郷吉之助
 板垣與三次樣
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(按)右は明治四年上京して木戸孝允と共に參議に任ぜられ、翌五年明治天皇に供奉して二十二日鹿兒島に還る。其翌二十三日を以て亡父數十年前の舊借金を返辨したるものなり。板垣は北薩|川内《せんだい》の富豪なり。此書鹿兒島倉内十介の所藏に係る。
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     病中消息

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持病不治・主上名醫御遣・兎狩劒術角力・獨逸強國
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 將《はた》又三月初より又々持病相起、幾度繰返し灸治《きうち》いたし候得共一向其|驗《しるし》も不[#二]相見[#一]候間、自分は不治之|症《しやう》と明め居候處、不[#レ]※[#「圖」の「回」に代えて「面から一、二画目をとったもの」、94−4]も當月六日 主上より侍醫並獨逸醫ホフマンと申者御遣に相成候付、治療いたし呉《くれ》候處、肩並胸|抔《など》之痛も少く相成、漸々快方に向候次第に御座候。療醫の見込も膏氣《あぶらけ》増長いたし血路《けつろ》を塞|循環《じゆんくわん》不[#レ]致候故、痛所も出來、若《もし》脉路を塞ぎ脈路|破《やぶれ》候節は、即ち中風と申ものに候由。いまだ器械は不[#二]相損[#一]候故、療治之不[#二]出來[#一]段には至不[#レ]申候得共、餘程|臟腑《ざうふ》も迷惑いたし居候に付、都而《すべて》膏氣を拔取《ぬきとり》不[#レ]申候而は不[#二]相濟[#一]との事に而、瀉藥《くだしぐすり》を用ひ、一日に五六度もくだし候事にて、少しも勞倦《らうけん》の覺無[#レ]之、日に心持宜敷相成申候。最早廿日餘にも相成候得共、些《すこし》も勞れ不[#レ]申、朝暮は是非散歩いたし候樣承り候得共、小|網《あみ》町に而は始終|相調《あひかなひ》不[#レ]申候處、青山之|極《ごく》田舍《ゐなか》に信吾《しんご》之屋敷御座候間、其宅を借《かり》養生中に御座候間、朝暮は駒場野は纔《わづか》四五町も有[#レ]之候故、兎|狩《がり》いたし候處、勝《すぐれ》たる散歩に相叶、洋醫も大に悦び、雨|降《ふり》には劒術をいたし候|歟《か》、又は角力を取候|歟《か》、何|歟《か》右等の力事《ちからごと》をいたし候樣申|聞《きけ》候得共、是は相|調《かなひ》不[#レ]申段相答候へば、獨逸|抔《など》は劒術不[#レ]致者は決而無[#レ]之、人の健康を助け候もの故、彼國に而は醫師中より相起り、劒術を初め候段申事に御座候。獨逸之強國たる樣想像被[#レ]致申候。夫《それ》故雨中も堂社《だうしや》に而も其中に而散歩いたし候樣承り候間、勤而《つとめて》醫師の申す如く相勤申候。食は麥飯を少々づつ、其外|鷄《とり》等格別|膏氣《あぶらけ》之なきものを食用にいたし、成丈《なるたけ》米抔は勿論五穀を不[#レ]食樣との事に御座候。肉は却而《かへつて》膏には不[#二]相成[#一]候由。穀物が第一膏|而已《のみ》に相成候趣に御座候、今より二ヶ月も相立候得ば必病氣を除《のぞ》き可[#レ]申と、口を極めて申居候。此度は決而《きつと》全快仕可[#レ]申候間御安心可[#レ]被[#レ]成候。此度|荒々《あら/\》病氣の所行《なりゆき》も申上置候。恐々謹言。
  六月二十九日認[#地から2字上げ]西郷吉之助
 椎原與右衞門樣
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(按)此書簡は椎原國雄の所藏に係る。前文を逸す。思ふに明治六年ならんか。是歳は翁四十七歳にして、持病重かりしかば、特に陛下の思召に由り、獨醫の診察を受けたり。六月は、韓國問題漸く高潮せんとせる時期にして、十月には其議合はず、十一月には翁は彌々故山の人となりたり。
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底本:「西郷南洲遺訓」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月2日第1刷発行
   1985(昭和60)年2月20日第26刷発行
初出:「西郷南洲遺訓」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月2日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:田中哲郎
校正:川山隆
2008年7月10日作成
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