ライブニツツ氏やオストワルド氏の Dynamismus 即ち Energetik(唯力論とでも譯すべき乎)であるが然るに此二派を共に非として一に偏せざる中央派とでも稱すべきは即ち所謂 Hylozoismus でスピノーザ氏の説も此意味になるのであらうと思ふがヘッケル氏は確かに此説を取るのである、而して余も亦此派を是認したいと考へる。
 評者又曰若しも此マテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙の本體とせぬときは本體と宇宙とは全く別物となつて宇宙は外物のために支配されることになる、宛かも神のために支配されるのと同じことである、ところがマテリーとエネルギーとの合一體を以て宇宙本體とするときには本體と宇宙とは全く一物となつて本體即ち宇宙、宇宙即ち本體と云ふことになる、其點が即ち自然的と超自然的との分れる所以であると思ふ、猶一寸茲に言はねばならぬことがある、博士はスピノーザ氏の本體を靜的實在の一例に引いたけれどもスピノーザ氏の本體は唯今も述べた如く他學者の實在とは違ひ超自然的でなく全くマテリーとエネルギーとの合一體であるから此點は大に注目せねばならぬことと思ふ、一寸此事を斷つて置く。
 井上博士曰進化論は右の如く宇宙の實在抔には一向頓着なく唯動的現象界の事のみを主旨として研究するのであるから純形式的の眞理に對しては何の解釋も出來ぬ、例へば二と二とが四となり三と三とが六となるといふが如きフォーミュラー抔は是れが如何に進化する乎、又論理の三原則の如きも決して進化するものでない、のみならず進化律それ自身が毫も進化せぬではない乎、凡て靜止的眞理に至ては進化抔いふことはない全く恆久不變である、又空間時間の如き是れが如何に進化する乎を聽きたい、加藤の如きは空間時間抔に就て何の考もないやうである云云。
 評者曰凡そマテリーとエネルギーとは必ず進化するものと余は信ずるのであるが唯進化せぬものは自然法それ自身である、進化律は自然法の一部であるから、それゆへ進化すべきものでないのである、數學的フォーミュラーの如きは是れは全く自然法それ自身である、又論理の三原則の如きも矢張同樣自然法それ自身である、それゆへ固より進化すべきものではないのである、ところが空間時間であるが是れは自然法それ自身とは言へぬけれども併し是れはマテリーでもエネルギーでもない、それゆへ是れは進化せぬのである、進化するのは唯マテリ
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