ぜぬが併し宇宙の本體は意思であると認めたのであるから是亦矢張大心靈であつて畢竟する所は人格神と同樣矢張不可思議的神秘的超自然的超越的のものになる、一層罵詈的に云へば即ちお化《バケ》となるのである。
評者又曰井上博士の靜的實在なるものは決して人間らしき神と歟佛と歟でないことは能く解つて居る、或は支那で天と歟上帝と歟いふの類又は佛の眞如實相といふ類である乎も知れぬ、併し兎に角左樣なる實在には必ず大意思大心靈があつて、それが宇宙を支配するといふことになるのである、而して此大意思大心靈の力で以て始めて宇宙に現象が起るといふことになるのである、是れが即ち井上博士の哲理であると考へられる、けれども右の如き大意思大心靈たる實在なるものが始めて宇宙に現象を起すとするならば、其力は非常に大なる動ではあるまい乎、非常に大なる動力があるからこそ始めて宇宙の現象を起し得るのではあるまい乎、兎に角大意思と云ひ大心靈と云ふ言辭の上に明かに大動力の意味を顯して居るではない乎と余は疑ふのである、果して然らば靜的なる意義は如何に解してよき乎、余は甚だ惑ふことである。
井上博士曰スペンサー氏は所謂「不可知」を説て宇宙の本體なるものは何である乎決して解らぬ、それは哲學の研究すべき領域でないといふやうに説て居るが是は甚だ謬つたことであるけれども併しヘッケル氏に至ては決してそれどころのことではない、靜的實在を全く輕蔑して居る、全く無いものとも言はぬけれども何の用をもなさぬものゝやうに論じて居る、それは左のヘッケル氏の文で解る、[#ここから横組み]〔Was als ”Ding an sich“ hinter der erkennbaren Erscheinungen steckt, das wissen wir auch heute noch nicht. Aber was geht uns dieses mystische ”Ding an sich“ u:berhaupt an, wenn wir keine Mittel zu seiner Erforschung besitzen, wenn wir nicht einmal klar wissen, ob es existiert oder nicht?〕[#ここで横組み終わり]ヘッケル氏の個樣なる議論といふものは全く實在を無視して居る、同氏は又
前へ
次へ
全19ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 弘之 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング