曰、余は決して進化論を否定せぬのみならず、それを大に道理ある學説と考て居るのであるが併し惜いことには進化論は唯末の事のみを見て根本的の道理を忘れて居るやうに思はれる點が少なくない、然るに凡そ進化を説くには必ず先づ運動といふことを説かねばならぬ、而して其運動を説くには必ず又其起因となるものがなければならぬのであるけれども、進化學は夫等の事を全く不問に付して少しも研究せぬのであるから其道理から考へると進化論は決して哲理とはならぬのである、進化論では靜的實在から動的現象の始めて生ずることも全く解らぬ、此靜的實在なるものは哲學上種々の名目がある、佛教では眞如實相と云ひスピノーザ氏は本體(Substanz)と云ひカント氏は物如(Ding an sich)といふの類である、けれども進化學者には左樣なものは少しも解らぬから唯々末の研究のみをして居て其本源には一向構はぬのである云々。
 評者曰、宇宙には必ず一の靜的實在なるものがあつて是れは微塵も動かぬものである、實在は不動であるが現象は動である抔と考へるのが抑の大謬見ではなからう乎と余は考へるのである、動靜といふ反對の状態は古來學者に限らず一般に想像することであるけれども余の考ふる所では眞の靜なるものは絶無であつて靜と見えるのは全く動の少ないのではない乎、宇宙萬物皆恆に活動して居るのであらう、其外に唯一の靜なる實在があるとは何分にも考へられぬではない乎、物理學の開けぬ時代には熱の反對に寒なるものがあると考へたのであるが、それは大なる間違で寒と認めるのは全く熱の少ないのであるといふことが解つたのであるが動靜の反對的状態も矢張それと同じことではない乎、併し井上博士は實在は宇宙萬物の一ではない全く宇宙の本源である、それゆへ活動するものではないと言はれる乎も知らぬが其主張の謬つて居ることは後に解るであらう。
 評者又曰、右の理を説くには先づ所謂實在即ち宇宙本體なるものから説き始めねばならぬのであるが井上博士に限らず凡て形而上學者と歟又は唯心哲學者と歟いふ者は宇宙の本源として一種の大心靈を認める、尤も是れは必ずしも人格神の如き人間に類似した本體であるとしないにしても必ず畢竟一種の絶大なる意思を有して居るものとなるのであつて是れが即ち全く靜的實在である、カント氏の如きは人格神を信じたのであるけれどもショッペンハウエル氏の如きは左樣なるものは信
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