は一に萬古不易の金剛大法に支配されて吾々の生存境界を成就することに餘儀なくされて居る」に白丸傍点]と、如何なる哲理も敢て之に敵することは出來ぬと思ふ、して見れば自我抔言つたとても、之れは全く無意義のものに過ぎぬ。
評者又曰然るに古來哲學者が右の如き大謬見に陷つたといふのには必ず多少の理由が存するのである、人間は他動物の全然自然力に制せられるのと異なつて却て大に自然力を制するが如き趣がある、今日の開化に際して其最も顯著なるものを一二擧示して見れば蒸氣事業電氣事業又は近來の飛行器の計畫の如きに至ては是れは實に人間が全く自然力を制し得るものと見て毫も不都合はないやうに思はれるけれども、それは唯左樣に思はれるのみであつて決して眞に左樣であるのではない、何故乎といふに之れは人間には他動物の未だ獲得せなんだ所の大知識を獲得したために遂に自然法の如何なるもの乎を知ることが出來るようになつて、それで其自然法を自ら利用することを得るに至つたからのことである、して見ると人間が今日の如き開化に迄進で蒸氣電氣又は飛行器の如き大發明をなすに至るのも是れは決して人間が自然を制するのではなくて矢張自然に制せられて居るのである、換言すれば自然法に遵從して以て自然法を利用することを得るやうになつた迄のことである、それゆへ毫末も自然法の束縛を脱して自由に所思を遂げる抔いふことではないのである、其他凡て精神上の事に至ても全く同一樣であつて到底微塵も自由意思のあるべきものではない、果して微塵も自由意思のない以上は又微塵も自我なるもののあるべき筈はない、唯知識に於て他動物に超越しただけのことである、それゆへ矢張唯絶對的自然力の奴隷であると認めねばならぬのである。
評者又曰ところが博士も亦自我は至て小なるものであつて多くは矢張宇宙の趨勢に制せられて居ると述べて偖そこに不可解の點があるとせられるのであるが是れが博士も亦大に自然力の大なる所以を悟られてあるのである、而して其不可解の點は到底個人の地位からは※[#「二点しんにょう+向」、第3水準1−92−55]に超絶して居る問題とせられるのであるが、それは蓋し彼の宇宙の靜的實在なる神變不可思議的大心靈に歸せられるのであらうけれども余輩は決して左樣なことで滿足することは出來ぬ、余輩は出來得る限りは矢張科學的に研究せねばならぬことと信ずる、併し又それ歟と思ふと博士は
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