ずってくれと言われ箪笥の奥から姉が嫁してきた時の『部屋見舞』(関西では色や形とりどりの大きい饅頭を作る)松竹梅や高砂の尉《じょう》と姥《うば》、日の出、鶴亀、鯛等で今でも布袋《ほてい》が白餡で、鯛が黒餡であったことを覚えている。僕は子供の時、間食は焼き芋と果物だけであとは皆キライで食わなかった。鶴枝はちょっとあの感じである」云々。
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狸の小勝
死んだ小勝がしばらく名声隆々としだしてきた頃、「今戸焼」などのまくらで、羽子板には人気役者の二人立ちてのがよくあるが、役者ばかしやらないでたま[#「たま」に傍点]には小さん、小勝の二人立ちでもこしらえるといい、もっともこの間、あったけれど、それは渋団扇だった、よくこうしたくすぐり[#「くすぐり」に傍点]を振っていた。
あの男の独創かと思っていたら、明治三十二年十二月号「文芸倶楽部」には先々代小勝(この間の人のように三升家《みますや》ではなく、三升亭《さんしょうてい》を名のっていた。さらに初代の小勝は江戸時代であるが、声色《こわいろ》に長じ、尾上小勝であったと聞く)の「山号寺号」が載っていてそのまくらに、これははじめから団扇のことにして、
「花鳥を描いた団扇でも、たいていなら三銭五厘か四銭ぐらいで買えますが、これが俳優《やくしゃ》の似顔でも描いてあツて御覧《ごろう》じろう、六銭や七銭はいたします(中略)我々落語社会の顔なんぞ描いたものなんざアありゃアしません。もっともないことはない、いつぞや小勝《わたくし》が牛込の夜見世を素見《ひやか》したら、あッたから見ると、団扇は団扇だが渋団扇でげす、落語家がすててこを踊ッている絵が描いてあるから、いくらだと聴きましたら、値段《ねだん》がわずかに八厘、その傍にまた何にも描いてない団扇がありましたから聴きますとこの団扇も八厘、してみると絵の描いてあるのも、描いてないのも同じことで、誠にどうも落語家ほどつまらんものはございません(下略)」
まさしくこの間の小勝のは、このまくら[#「まくら」に傍点]の単刀直入な換骨奪胎だったのである。それにしてもあのヌケヌケとした小勝にして、己れに「小勝」をなのった以上はよしやまくら[#「まくら」に傍点]のはし[#「はし」に傍点]にしてもこうして先代の何かを継承しようと腐心していたことを思えば、伊藤痴遊氏もかつて憤っていられたごとく
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