が向こう側まで掛け渡されていた。平常はそれがピーンと跳ね上げてあり、用のある時だけ下ろす仕組みになっているのだが、しかしながらそれを渡って帰ると滅法近い。で、廓内のもののような顔をして柳朝、
「ヘイお早ようござい、恐れ入りますが、ちょいとあの裏の跳橋を――」
 といちいち下ろさせ、平気な顔をして渡って行った。馬楽はまたその帰りひとッ風呂、朝湯へ飛び込むとそこに預けてある知らない人の石鹸をまるでその人の友だちのようなことを言ってはひとつひとつクンクン嗅ぎまわり、中で一番匂いのよさそうなのを選んではヌケヌケとつかった。
「そういう私も、あの時分は日掛けの金が払えなくって家へ帰れず、本間さんの二階へ転がり込んでいたんですが、ね」
 もう七十幾つになるだろう、思えば元気な左楽老人、つるつるの赤茶けた頭を撫でまわしながら、思い出深げにこう語った。
 ささやかな庭先、春の日がだいぶ傾きかけていた。
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    歳晩日記抄

 十二月二十六日。
 大寒の入りのような厳しい寒さ、風も烈しい。その中を岡本文弥君宅へ行く。先月の女房の発表会以来絶えて久しく会はなかったし、いろいろ来年度の打ち合わせあるためなり。来客中、少し耳の遠くなった宮染さんと話して待っている。お客が帰りだいたい打ち合わせを終えた時青い眼鏡をかけた玄人らしい赤ばんだ顔の中年の女の人が入って来て、心易げにそこの炬燵の中へ手をいれてきた。間もなく私の帰ろうとした時、もうその女の人は隣の部屋でしきりに宮染さんから稽古をしてもらっていた。ハッキリ聞きとれなかったが、「累身《しじみ》売り」のようだった。
 ワザと省線巣鴨駅下車。沿線の細い崖っぷちから見番の横のだらだら坂の方を遠廻りして帰ってくる。何となくこの道が愉しめて好きなのなり。「陸橋や師走の山の見えにけり」の句を得た。
 帰ると見馴れない男女の草履それに子供の靴、稽古場の電気蓄音器からは志ん生君の「氏子中」のレコードがせわしなく聞こえてきている。この間、馬楽君と南支へ皇軍慰問に行っていた橘の百圓君夫妻とその坊やの来訪なのだった。来年、橘家圓太郎を襲名するについて高座で吹き鳴らしたいと言っていた真鍮の喇叭《ラッパ》、豆腐屋さんが皆献納してしまったので入手困難だとかねがね百圓君が言っていたが、今度留守中に親切な人が手に入れておいてくれ、先日、三カ月の慰問を終えて同君がはるばる八王子駅まで帰って来たら、山なす出迎えの人たちの中で一人がブーブーこれを吹き立てた由だ。喇叭の圓太郎襲名に相応しいいかにもうれしい話ではないか。その話の最中へ、桂文楽君がやってくる。昨日文楽会忘年宴を休んだため、心配して来てくれたのなり。かたがた、来春の文楽会の打ち合わせ、向上会のことなど、いろいろ相談する。相変わらず文楽君の話はその得意とする「つるつる」や「干物箱」や「鰻の幇間」中の人物のように軽くやわらかく愉しくていい。師走を忘れて他愛なく笑ってしまう。
 文楽君帰り、やがて百圓君たちも帰る。
 早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老《としと》って見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つ鞠《まり》ががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
 若い海老蔵が「源三位《げんさんみ》」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額に瘤《こぶ》のあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとした扮《こしら》えをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが
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