して、枕許に堆積している原稿紙を風呂敷へ包み、戸棚へしまってしまいました。そうしてただぼんやりと、空に、徒《あだ》に、日々夜々をすごすことに覚悟のほぞを定めました。私のような何かしら書き続けていることのほかに歓びのない男にとっては、これがなかなか苦患なのですが、今度のようにほんのちょっとした雑誌の六号雑記、二、三行読んでもすぐクラクラとしてしまうようなことになっては……。
幸いに二十九日。しとしとと霧雨が煙っていましたが、橘の百圓に頼まれて、八王子へ女房と妹とが防空監視隊の慰問に踊りにゆくことになっていたので、さっそくそれにくっついて行きました。小屋は舞台開きには六代目(尾上菊五郎)がきたといわれる昔の関谷座で、今東宝劇場とかいっています。そこへ駅からまっすぐに乗り込みました。小さい狭い楽屋の窓から裏の空地の梅の木に梅の実が一つ、赤黄色く熟れているのが寂しく見られました。雪の下がいっぱい無風味なほど大きく青黒い葉を繁らせていました。昔、女房と行った鳥取のある小屋の楽屋の景色をふっと私は思い出しました。正午にからだが空きましたので、百圓のやっている撞球店へ帰って来て中食。みんなで高尾山へ出かけました。バスを棄て、ケーブルを棄てるとしきりに霧が這《は》ってきては私たちを包み、またスーッと遠のいてゆきました。ようやく見晴らし台まで上ったけれど、やはり霧ばかりでなにも見えない。ただしきりに山鳩が啼き立てていました。携えてきた冷酒を飲んだりして、またケーブルカーで引き返しました。続いてバスを待つ間、ひどく土砂降りの雨にあいました。辺りが真っ青に暮れかけてきました。八王子の町へ着いた頃にはもうとっぷりと暮れつくして、この甲州街道の親宿へは、ざんぎり物の書割のように灯が入っていました。何とかいう牛肉屋へ案内されて、ふんだんに牛と、豚を食べました(そうそう、昼間、この町の古本屋でまだ新しい久保田万太郎氏の『東京夜話』、近松秋江氏の『蘭燈情話』など求めました。そこには同じ久保田さんの『駒形より』のたいそう綺麗なものもありましたっけ)。さて、ぐずぐずに酔って、その晩、遅い電車で帰って来ました。
晦日はおかげでだいぶ、頭が治りました。ハガキを書くと少し手が慄《ふる》えたが、もう痛まないだけでも大助かりです。やっぱり八王子へ行っただけのことはあったと思いました。元気で、薄ら日の中を、浅草の熊谷稲荷のはなし塚の法会へ出かけてゆきました。いろいろの落語家たち、講釈師たち、野村さん、鈴本亭主人、伊藤晴雨画伯、それに小咄をつくる会の人たちなどに会いました。珍しく二階にしつらえられた本堂で私は、文楽君と並んで座って、ぼんやり読経を聞いていました。芥川さんの何かの小説に「読経を新内のように聴いていた」という一齣《ひとこま》がありましたね。何がなしあれを思い出しながら、ここから見渡される近所の屋根屋根がひどくバラックめいてお粗末なことに腹を立てました。文楽君も同感だと言いました。一時頃帰ってロッパ君の稽古場へ遊びに行こうか富士市へ行こうかと思いましたが、結局どっちへも行かないで宵寝をしてしまいました。この晩浅草へ足が向いていたらあなたにお目にかかれたのでしょう。夜中に三度目をさまし、またすぐ寝ました。いつか雨が降り出していたようでした。
カラリと晴れたお朔日の朝は、巣鴨駅の方へ散歩に行ってはしなくも吉井先生の『相聞居随筆』を見つけました。発行所へたびたびお百度まで踏んだふた月がかりで待っていた新刊ですから、買って帰るが早いが、貪るように読みはじめました。生田葵山氏の若い時の話、永井先生の「矢筈草」の発端、フリツルンプや凡骨や都川という木下杢太郎氏の詩へ出てくる鳥屋の話など、ことに心を惹かれました。もう読んでいてもクラクラすることもなく、おかげで夕方まで退屈しないで過ごすことができました(ばかりか、たいへん愉しかった)。そうして、ひと風呂浴びて富士市の雑踏の中を、高のところへ訪ねていったという段取りになるのです。
……以上をおしまい近く書き続けていた時、文楽を味わう会の幹事さんたちが三人、お酒持参で見えました。すぐお酒がはじまって文楽君の話やその他の落語家たちの話で他愛なく半日を過ごしました。夜は夜で、大陸へ発つ松平晃君が訪ねて来てくれたりしました。どうやら私の頭もだんだん治っていきそうです。でも、このさい、わざとうんと休むことにして、せいぜい他日を期したいと思っています。いっぺん高とおあそびに。
もう私どもの町々も、新内流しやアコーディオンの流しが毎晩、めっきりと増えて来ました。これが来はじめると、ハッキリ「夏」が感じられるのです。では。
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馬楽供養
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菜種河豚のころに延ばして弥太郎忌 容
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