噺の数が少ないと、よく言われた。そうしてこの私自身もまた、そう信じていた。少なくとも五、六年前までは。
が、そののち私はこの人の修業法を親しく相見るに及んで、ようやくそうした非難の認識不足もはなはだしいことを悟るに至った。
くどくも言うとおり、文楽の「芸」の歩みは、歩一歩。あくまでナンドリと、ネットリと、永い永い星霜の下、一つの噺を掘り下げ、磨き、艶出しをして、そうしてこれならばいいと得心のいったところで、はじめて次の「噺」へと第二の鍬を掘り入れていくのである。
従って空に、他所目で見ている時、わずかまどろっこし[#「まどろっこし」に傍点]い感じがされるけれど、この人、六十歳、七十歳にまでなった時、その上演種目の、意外におびただしき数にのぼっているに、人、驚きの目を瞠《みは》る、必ずやその時があるだろう。私は、それを固く信じて疑わないとともに、それだけにまた我が文楽の自愛、自重、加餐《かさん》を、切に切に衷心から祈って止まないものである。
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大東亜戦大勝利の夜の寄席
プリンス・オブ・ウェールズが沈み、香港が陥ち、そこかしこの海戦にはめざましい捷報《しょうほう》が続々もたらされてくる年の暮ぎりぎり、病後の私は「近世浪曲史」六百枚の最後の項を急いでいた。
たまたま年代その他のことで服部伸君の示教を得なければならないことが起こったので、近くの大塚鈴本の楽屋を訪れた。服部君の高座から下りてくるまで、楽屋で私は待っていた。左楽老人がいる。紙切りの正楽がいる、故柳枝(春風亭・七代目)門下の目の悪い若い前座がいる。
「何しろ日本の爆撃機が戦闘機を追い駆けていくってじゃありませんか、あなた」
火鉢へ手をかざしながら正楽は、
「ソそんなあなた、それじゃ鼠が猫を追い駆けているようなもんでさ、ねえ」
「……強い……何にしても強い……」
嘆ずるように左楽老人が口を開いた。昔、乃木将軍の幕僚として日露の役に走《は》せ参じ帰って来てから軍服で高座へ押し上がり、「突貫」や「凱旋」という時局落語に一躍人気者となってしまったこの人。「乃木さん」もしじゅう演っていたが――。いつまでも丈夫ではあるが、めっきり年とともに色が黒くなり、シミだらけになってしまったこの老勇士の顔を、しみじみと私は見つめた。
「年の暮れでこの寒さで、この戦争で、だのにこんなにお客様がやって来てくださる。みんな皇軍大勝利のおかげですよ」
子供が大好きなお菓子を貰ったよりもまだ嬉しそうに、目の悪い若い前座は顔全体を雀躍《じゃくやく》させてはしゃいでいた。この人のこの時の顔を生涯私は忘れないだろう。拍手が起こって服部君が下りて来た。
凩《こがらし》が、しきりに格子窓の外で吹き荒れていた。
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この二、三日のこと
安住さん。
晦日の晩の富士市へおいでになったそうですね。昨夜、高篤三のところへいって、お朔日《ついたち》の市をぶらつきあなたのお見えになったことを聞いて、たいへん残念に思いました。昨夜は、秋に日本橋倶楽部で催すことになった女房の新舞踊発表会の相談にいったのでしたが、同じ富士市でも六月のお朔日の時とはちがって、もうすっかり夏になりつくした明るい景色が、さまざまな植木にも、虫売りたちにも、また釣荵《つりしのぶ》屋の上にもマザマザと感じられました。ことによるともう夏の終わりを思わせるような儚ささえただよっていて、とりわけ虫売りは三軒も四軒も出ていました。ただ去年あったような赤や白や黄や水色や茶や、五色のお砂糖の雛菓子のように飾り立てたお菓子屋は、さすがに今年は六月の時も今度も見当たりませんでした。だんだん売るものが世帯じみてきて、この市のあくまで夏の巷のお祭らしい風情がなくなってゆくとしきりに高は嘆じていました。
……今日は朝から薄曇りして蒸し暑い。その中で、書下ろし長篇小説『寄席』の校正を、今までしていました。おかげでもう二百二十頁できました。もうひと呼吸で峠を越します。この本の出版記念演芸会をやる計画が本屋さんに今あって、じつは昨夜は女房のばかりでなく、私の方のその相談にも出かけたのでした。
話が二、三日前へ遡りますが、二月から三月へこの『寄席』を仕上げたあと、また中篇短篇とりまぜて一冊分仕上げ、続いて、先月からこれも書下ろしの長篇小説『圓朝』にかかって、百余枚ほど書いてきたところで、すっかり、頭をやってしまいました。たいてい月にいっぺん、書けなくなってしまう時はあるのですが、今度のはちとひどすぎて、この間の晩、高が訪ねて来てくれた時なんてとんと態はありませんでした。声をつかう商売の人たちには調子をやるといって時々パタンと声の出なくなってしまう時があるのですが、私の頭もそれらしい。で、潔く『圓朝』当分放棄することに
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