などをうたわれると、哀切で、古風で、いかにも遠い日の浪華の世相が考えさせられる……。
 尺八の扇遊(立花家)が喨々《りょうりょう》と吹く都々逸に、初秋の夜の明るい寄席で涙をこぼした頃は、あたしもまだ若い、二十一、二の恋の日だった。が――今でもあの人の尺八に言いがたなき悲哀味が、ことに都々逸を吹く時いっそうに強く滲み出ているように思う。
 おしまいに、寄席の、噺家の都々逸は、あまり美声でなく、どこかとぼけていて、やはり昔ながらに「和合人」式の手合いがのんでとろとろ[#「とろとろ」に傍点]言いながら歌い廻す、その空気のまざまざとでているのを至上とし、また、とこしえにそうあるべきだと信じます。
 そのイミで、春風柳のような、よほど高踏な小唄を一つずつ聞かせでもするかのように、ただ、都々逸ばかり立てつづけに歌って、
「さあ、そちらの大将いかがです」
「よッ、心得た。では……」
 てな、あの華やかな味の会話の全然オミットされている都々逸などは、音曲師としては下の下です。
 そこでやはり、前記の小半治、訛れどもおかしく――と、今は、この両名だけになるのでしょう。
 それからはげ亀、〔バンカラ〕辰三郎、〔バンカラ〕新坊、小亀、先代岩てこ、太神楽の人々の都々逸によろしいのが大分当時はありましたが、これはまた別の機会に申し上げます。
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    名人文楽

 一字一画を楷書でいくいわゆる本格の落語家には、気の詰まるほど陰性の芸風の人が多い。反対に、華やかないわゆる「人気者」と称せられる落語家手合いは、描写がなく、心理の運びも拙劣で、どうかすると、雌雄の区別さえつかない人が少なくない。
 これを人生にたとえるなら、前者は糠味噌《ぬかみそ》臭い世話女房で、たしかに貞節そのものではあるだろうが、亭主野郎の晩酌の味を決して愉しくさせてはくれなかろうし、後者は逢いつ逢われつしている間こそ無責任で面白かろうが、しょせんは気紛れの浮気おんな、野に置け蓮華草のそしりはまぬかれない。
 夫に仕えて貞節専一、しかも紅白粉の身だしなみよろしく、愛嬌こぼるるばかりの世話女房なんてのが、もしあったならば、およそこの人生は万朶《ばんだ》の花咲き匂う。芸の世界においても両者を兼ね備えた、つまり本筋にして眉目麗しく華やかであるなどという人材の登場は、何十年にいっぺんしか約束されない。すなわち「名人」の
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