」に傍点]、てけれっつのぱあ――そこにすべてが出発している。だから、子供を蹴ちらすとたちまち二人は相乗り車! ※[#歌記号、1−3−28]相乗り幌かけ頬と頬がぺっちゃり、てけれっつのぱあ――とおいでなさる!
 いずれにもせよ、だがこのくらい、悲哀を大きな玻璃玉《はりだま》にして打ちつけてくれる踊りはない。花やかな憂鬱。きらびやかな悲哀。
 ――私は、この踊りに見とれている時ほど、こよなき人の眸《ひとみ》の中をでもじっと見つめているような、うれしくかなしくいたましい思いをすることはない。
 されば、声を極めてかくは私も叫ぶのである。
 君見ずや、かっきょの釜掘り!ああ君見ずや、かっきょの釜掘り※[#感嘆符三つ、81−8]と。

     才賀の死

 やまと[#「やまと」に傍点]が死んだ。東京へつばくろが訪れ出したら、才賀となってとうとうやまと[#「やまと」に傍点]は死んでしまった。
 巧かった。
 せん[#「せん」に傍点]の桂文楽(五代目)だ。
 惜しいものをこじき[#「こじき」に傍点]にした。
 そう思うと、圓右(初代)より、今輔(古今亭・三代目)より、やまと[#「やまと」に傍点]の逝《ゆ》いたが、一番惜しい。第一、やまと[#「やまと」に傍点]の晩年は、小圓朝(三遊亭・二代目)より暗かった。まるで看板に名がなかった。せん[#「せん」に傍点]の談志(立川・五代目)で今の金駒(になって、そののち、どうしているか?)も、実に影のうすい二つめ所に堕ちていたが、やまとの方は、金駒の芸とは比べられないだけさらにまた惜しいと思う。ことに近年私は、彼、やまとを愛することより何より強く、せいぜい辻びらの隅っこに小さな彼の名を見つけしだい、追っ駆け追ん廻して歩いたが、ついに一度も聞けなかった。体が悪いというかどで、ただ、楽屋廻りだけしているのだと。これは昔、彼の世話になった今の若い真打たちがせめてもの彼への報恩のためであったらしい。しかし、おかげで私はとうとう最後まで、彼の近影に親しめなかった(最も、そういう内的な、楽屋うちでのやまとは晩年まで恵まれていた。林家正蔵のごとき、やまとのためにのおはな会《よみきり》ならそれこそ万障繰り合わせても出向いていったかの観がある。現に病歿のすぐ以前にも、むつみと協会と合同で、一昼夜にわたる演芸会さえ催した。やまとはそこで才賀なる父の名を襲いで、そ
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