のだった。
浜納豆に金山寺味噌、たしかにそうと次郎吉は睨んだ。
どちらも美味しくない、およそ次郎吉の虫の好かないたべものだった。しかもここへきてもう三晩、たいてい毎晩和尚様はあのお菜だった。
他人事《ひとごと》ながらあんなお菜ばかりたべていなければならない和尚様が気の毒で気の毒で仕方がなかった。
でも……。
和尚様よりこの俺たちのお菜ときたら、またもっとひでえや。
最前の仇辛い雑炊の舌ざわりを、悲しく次郎吉は舌の上へ喚《よ》び戻していた。何とも彼ともつきあい切れない味だった。味も素ッ気もないとよくいうけれど、まだそのほうがいい、味のあるだけいっそう情ない代物だった。
ほんとに何て雑炊なんだろう、ありゃ。
阿父さんがよく宿酔《ふつかよい》のとき、深川茶漬といって浅蜊のおじやみたいなものをこしらえ、その上へパラリと浅草海苔をふりかけたのをよくお相伴させて貰った。けれどあれとこれとじゃうんてんばんてん[#「うんてんばんてん」に傍点]の違いがあらあ。
ひでえにもひどくねえにも、よく仲間がやる落語に「万金丹《まんきんたん》」てのがあって、道に迷った江戸っ子二人、山寺へ一夜の宿を借りると、世にも奇妙な味の雑炊をたべさせられる。
しかもときどき舌へ絡みつくものがあるので、
「何ですこれは」
と和尚様に訊くと、
「藁だよそれは」
「エ、藁?」
「ウム」
ニッコリと和尚様は笑って、
「お前その藁をたべるとお腹ン中がよく暖まる」
「壁じゃあるめえし」
というくすぐり[#「くすぐり」に傍点]がある。
何のことはない、その藁入りの雑炊もかくやとばかりのここのお寺の雑炊だ。
とすると俺たちもおっつけ壁になる口か。
いや、なるかもしれない。
ほんとに――ほんとにこんなお寺の生活《くらし》なんて、しんからしんじつつまらなくって、壁も壁も大壁みたようなものだろう。そうしてこの自分もまた、次第にその大壁の中へ塗りこめられていく一人となるのだろう。
そう、まさにそれに違いない。
……そのように考えたとき次郎吉は、にわかに父圓太郎がよく高座でつかう十七文字がゆくりなくもおもいだされてきた。
エーエーとあれは、む、む……む……そうだ、「武玉川《むたまがわ》」だ、たしかそういう発句の本だっけ、その中の句を引事《ひきごと》にしちゃ、阿父《おとっ》さんこういったんだっけ、
「この蜆《しじみ》、壁で死ぬとはおもうまい」って。
あの時分は何の気なしに聞き流していたけれど、今になると思い当るいい句だ、たしかに。
「壁で死ぬとはおもうまい」か。
その通り、その通り。
とするとこの俺《おいら》はさしずめ蜆か。
ウム、いかにも俺、小《ち》っこくて江戸前だから、業平《なりひら》蜆ってところだろう。
……ふッといま次郎吉の心に、青々と水美しくこがれている業平あたりの春景色が、広重えがく江戸名所絵のよう蘇ってきた。
早春の空あくまで青く、若草萌えている土手の下、そこにもここにも目笊《めざる》片手の蜆取りの姿が世にも鮮やかに見えてきた。
臥龍梅から小村井かけて、土手ゆく梅見客も三々五々と目をよぎった。どの男も、どの女もみんな瓢箪を首にかけ、ホンノリ頬を染めていた。
……しかもその景色は、こうした寺方の墨一色の世界とは比ぶべくもなく多幸な多彩なこの世ながらの大歓楽境のようおもわれないわけにはゆかなかった。いまの環境がいっそう何とも彼とも取り返しの付かないもののよう、世にもクサクサと考えられてきた。
ああ俺のような江戸前の生一本の業平蜆が、こんな抹香《まっこう》臭い荒寺の壁の中で死んでしまうなんて。
いやだ……いやだ……俺いやだ……いやだったらや[#「や」に傍点]だや[#「や」に傍点]だや[#「や」に傍点]だ。
まるで手籠めにでもなるのを阻《はば》むもののように床の中で次郎吉は、必死になって身悶えした。バタバタ手足を振り動かした。いつ迄もいつ迄も繰り返した。繰り返してはまた繰り返していた。
でも……。
泣き寝入りに寝入ってしまうとよくいうけれどさすがに昼の疲れがでてきたのだろう、やがてグッタリその手足も動かなくなると、間もなく魘《うな》されているような荒い鼾をかきはじめた。いやことによると鼾ではなくほんとうに魘されていたのかもしれない。もう消え消えな燈芯の灯の中に浮きだしている次郎吉の額へは、可哀《かあい》や物の怪にでも憑《つ》かれたかのようにベットリ脂汗が滲みだしてきていた。
……。
三
翌朝。
晴れているのに少しも日のさし込んでこないガランとした冷たい本堂の真っ只中に、次郎吉はたったひとり坐らされていた。
お経文の稽古だった。
庭先のほうの明るく晴れて見えるだけ、いっそう身の周りの一切が寒々と凍えていた。
「……」
昨夜みんなのあとへつづいてしどろもどろに誦んだ般若心経を、早く覚え込んでしまわなければならない。
「エヘン」
誰にともなく咳払いした。そうして目の前のお経文へと目をやった。
「観自……観自……在菩薩」
読みかけてまた、
「観自……観自……観自観自」
あとの観自は、ことさらに二つ重ねていった。
かんじ……かんじ……観自ではなく、かん治。宗十頭巾に十徳《じっとく》姿、顎鬚《あごひげ》白い、好々爺《こうこうや》然とした落語家《はなしか》仲間のお稽古番、桂《かつら》かん治爺さんの姿が、ヒョロヒョロと目の前に見えてきた。
「いけない」
あわてて次郎吉は、首を振った。俗念を払おうとしたのだった。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五薀《ごうん》皆空《かいくう》なりと照見して……」
急いでここまで読み下して、素早くさらに次の言葉へと読み移った。
「一切の……一切の苦厄……苦厄……」
九百九十の寺々に、きのう剃ったも今道心……苦厄という言葉がそのまま九百へ連想を走らせてきた。おととい剃ったも今道心、ただ道心では分り申さぬ、と同時にこんな張りのある訥弁《とつべん》の声《こわ》いろが、あとから耳許へ聞こえてきた、木の葉の合方、山嵐や谺の鳴物も聞こえてきた、扇で半面隠して一生懸命声張り上げている小勝《こかつ》師匠の高座姿さえマザマザとして見えてきたのだった。
グオーン。
そのとき遠くの位牌堂のほうへ行く道で、誰かが鐘を鳴らしていった。それすら時にとっての本釣りと聞こえた。
「紀の国屋」
思わずこういってしまって、ギョッと口を押さえた。あわてて辺りを見廻した。幸い、誰もいなかった。急いで次のお経へかかった。
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、色《しき》は空《くう》に異らず、空は色に異らず、色|即《すなわ》ち是れ空、空即ち是れ色、受想行識《じゅそうぎょうしき》もまた是の如し」
ここのところはトントンといった。ことさらに連想さそわれるものがなかったからだった。でも、そのあとがまた、続けざまにいけなかった。
「生せず、滅せず、垢つかず浄《きよ》からず、増さず減らず」
というところへきて、このごろ世間で時花《はや》っている阿呆陀羅経のないものづくしの真似をする蝶丸爺さんのあざらし[#「あざらし」に傍点]のような顔を次郎吉は思いだした。危うく「坊主に簪《かんざし》さし場がない、畑に蛤掘ってもない」と傍らの小木魚叩いて歌いだしてしまうところだった。
「真耳鼻舌身意《けんにびぜつしんい》も無く、色馨香味触法《しきしょうこうみそくほう》も無く、眼界《げんかい》も無く、乃至《ないし》、意識界も無く、無明《むみょう》も無く、また無明の尽くることもなく……」
いけない、いよいよないものづくし、だ。
「乃至《ないし》老死《ろうし》も無く、また老死の尽くることも無く、苦集滅道《くしゅうめつどう》もなく、智も無く、また得《とく》も無し、所得無きを以ての故に」
どうしてこう逆らってちょぼくれ仕立になってくるんだろう。このお経の文句はますます、小木魚が叩きたいよ。
「……菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《ぼだいさった》、般若波羅蜜多に依るが故に、心《しん》※[#「罘」の「不」に代えて「圭」、第4水準2−84−77]礙《けげ》無し、※[#「罘」の「不」に代えて「圭」、第4水準2−84−77]礙無きが故に、恐怖《くふ》有ること無し」
うわーッ、な、何てだだら長いないものづくし[#「ないものづくし」に傍点]だ。音を上げて次郎吉は経文を伏せてしまった。妄念を払うがごとく、欄間を見た。
張りめぐらされている赤地錦へ、蜿々として金龍が一匹|蟠《わだかま》り、それが朝風に戦《おのの》いていた。
「……」
その唐風の暖簾《のれん》のようなものの一番端に、吹抜亭さんへ、ひいきより――という文字を、アリアリと幻に見た。
「いけない」
ハッと次郎吉は眼を閉じた。
やがて、ひらいた。
目を逸らすように天井を見た。
貧乏寺でもさすがにこればかりは金色《こんじき》燦爛《さんらん》とした天蓋が、大藤の花の垂るるがごとく咲き垂れていた。
その天蓋に、今度は高座の上から吊されているあの八間《はちけん》の灯を感じた。
いけない。
またまた次郎吉はしばらく目を閉じた。
そして、ひらいた。
慈愛を含《こ》めている正面の阿弥陀さまのお姿が、その左右のあかあかと燃えている大蝋燭が、次郎吉のようなお寺嫌いのものにも目に入ってきた。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多……」
ここぞとお経文に頼ろうとした。
……が甲斐なかった、二本の大蝋燭はたちまち高座のそれにそっくり見え、もったいないが鎮座まします阿弥陀さまは、親父の圓太郎が師匠の二代目三遊亭圓生の身振りうれしき芝居噺の画面の姿を髣髴《ほうふつ》と目に躍らした。親玉ァとさえ、また叫びたかった。
「なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
あまりのことに自分が情なくなってきて次郎吉は、急にカラリと明るい調子でお念仏を唱えだした。あとからあとから尽くるところなく唱えだしたのだった。
「……」
たまたま廊下を、義兄玄正が通り合わせた。
覚えろといった般若心経ではないけれど、心を空の念仏三昧。ではやっと落語家たることをあきらめてくれたか。
秋の霜のような烈しい顔をそっと綻ばして喜ばしさに通りもやれず玄正は、そのまま廊下に立ち停まって耳傾けていた。
「なんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだ」
明るいお念仏の声は、いつ迄もいつ迄もつづいた。果てしなくつづいていった。
とおもううち、
「……おい婆さん、飯が焦げるよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
いきなり次郎吉は爺臭い声をだして、
「おい誰だい赤ん坊を泣かすのは……うるさくっていけねえ、気を付けろよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、アオーイ鰌屋《どじょうや》、いくらだ一升、ウ、高《たけ》え高え負けろ、もう二文負けろィ、あれ因業《いんごう》だな、ヤイ負けねえとぶンなぐるぞ、ア負けたか感心なんまいだぶなんまいだぶ、オイ婆さん、早く笊を出してやんな、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、何、因業な割には安い鰌屋だって、ウ、そいつァよかった、じゃすぐお味噌汁《みおつけ》の中へ入れちまいねえ、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、どうだ入れたか皆、なんまいだぶなんまいだぶどんな具合だよ鰌は、なんまいだぶなんまいだぶ、鰌、皆白い腹だして死んじまったって、態《ざま》ァ見やがれ、なんまいだぶなんまいだぶ……って。これじゃ何にもなりやしません」
ここまでトントンとひと呼吸に喋ってきて始めてホッと我に返ったように、
「ヘイお馴染の小言念仏、ちょうどおあとがよろし……」
いいながら何気なく見た廊下には、
「ア!」
さながら入道雲のよう渋面つくった義兄玄正がニュニューッと一杯に立ちはだかっていた。
「い、い、いけ……」
このまま心臓の鼓動が止まってしまうかとばかり次郎吉はおどろいた。目を白黒した。
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