まだしらないけれど、こんなに巧い噺ってものが世の中にはあるのかしら。宿酔《ふつかよい》らしい熊さんの青白い顔も、実体らしいお神さんの顔も、無邪気で人を喰ってる子供の顔も、みんなそこにいるよう活き活きとして見えてくる。いや顔ばかりじゃない、そこの家の中の様子までが、ハッキリ目に映ってくるようである。大へんな芸を持っている師匠だ。何だか身体中の汚れたものがすっかり掃除されつくしてしまったあとのような爽々しさを、小圓太はおぼえた。
つくづくいい師匠をとったとおもわないわけにはゆかなかった。
「御苦労さまで」というのをつい忘れてしまっていたくらい小圓太は、ボーッとなって聞き惚れていた。
その晩、かえってくると師匠はからすみ[#「からすみ」に傍点]だの、海鼠腸《このわた》だの、鶫《つぐみ》の焼いたのだの、贅沢なものばかりいい塗りの膳の上へ並べて晩酌をはじめた。お神さんは風邪気だとてすぐ寝てしまったけれど、師匠はいつ迄も盃を重ねていた。南泉寺の和尚さまのお給仕たあ、わけ[#「わけ」に傍点]がちがう。見るから美味しそうなものを召し上がっておいでなすってて、お給仕してても心持がいいや。再び二年前の日暮里の暮らしをおもいだして、仄々とした喜びに、しばらく身内を包ませていた。さあおつもりにしようといって師匠が切り上げたときはもうよほど遅く、おしのどんなんかつとに寝ていた。お膳を下げてから台所で切干大根の煮たので冷飯をかっこんで厠へゆくと、いつか冷たい風が吹きだしたらしく、月明りで窓の障子へ真黒く映る笹寺の笹がしきりに音立てて揺れていた。
うっかりどこへ寝るのか誰にも聞いておかなかったのでまごまご[#「まごまご」に傍点]していると、いい塩梅におしのどんが厠へ起きてきた。そして眠そうな目をこすりながら台所の向こうの部屋を指した。
いってみるときのうひと足先に荷車で運ばせておいた見覚えのある自分の夜具が、大きな萌黄の風呂敷に包まれて置かれてあった。すぐに敷いてもぐり[#「もぐり」に傍点]込んだ。
長四畳だった、その部屋は。
よく俺、長四畳に縁があるんだな。
三たび小圓太は日暮里のお寺住居の上をおもいだしてしまうことが仕方がなかった。
でも……同じ長四畳でもこの部屋の三方の壁には、いろいろさまざまなここ二、三年の間の寄席のびらばかりが古く新しく面白可笑しく貼り交ぜられていた。
圓生、圓橘、圓馬、しん生、龍生、馬生、文楽、馬石、馬六、馬黒、馬道、馬龍、馬猿、馬丈、馬之助、馬風、馬勇、玉輔、龍若、りう馬、龍齋……見れども見飽かぬ落語家たちの名前づくし。小圓太にとってそれは、あとからあとからまだあるあると口の中へ放り込まれる美味しいお菓子にもさも似ていた。こうしてこうやって次々とこの名前を見ていることだけでも、この部屋にいることは嬉しかった、ありがたかった、この世ながらの極楽――花園に住む心地がした。
いっぱいの幸福感に包まれて、小圓太は夢も見ずにグッスリと眠った。
二
……咽喉元過ぐれば熱さを忘るるとは、さもいずこの誰がいいだした言葉だろう。
我が小圓太、圓生門にあること二ヶ月、もうその年の暮のうちには、この諺に当て嵌るような心根になってきていたといったら、人、恐らくはその怠惰薄弱心に呆れるだろう。
あるいは色を作《な》して憤るかもしれない。
が――しばらく待っていただきたい、あれほど焦れに焦れて止まなかった落語家という世界に飽きだして小圓太、日夜を儚《はかな》みだしたのではつゆ更ないのだから。
むしろ落語《はなし》に、芸に、ひとしお身を打ち込めばこそのきょうこのごろの耐えがたい不満ではあったのだった。
いおうなら師匠が少しも落語家らしい生活をさせてくれなかったから。もっと簡単にいえば少しも「芸」を教えてくれなかったからだった。
いいえ、教えてもくれなければ、やらせてもくれない、馬鹿でもチョンでも橘家圓太郎の忰小圓太という変り種の子供の落語家として、休み休みではあるが七年ちかく高座のお湯の味をおぼえてきていた自分、「待ってました坊や」くらいの掛声はしじゅう掛けられていた自分、振袖を着た高座姿が可愛いとてお料理屋さんへ招ばれれば、折詰と御祝儀を貰ってかえってきたことも一再ではなかったこの自分だった。
どうだろう、それが――、
てんで[#「てんで」に傍点]落語のハの字もやらさせてくれないばかりか、きょうこのごろではいままではおしのさんのやっていたろう拭き掃除から御飯炊き、使い走り、そういう落語へでてくる権助のような間抜な役廻りのことばかり、ことごとくこの自分にさせる。
それでも何でも前座の前へでも何でも上げて喋らせてくれるなら、いやもし高座へ上げてくれないとしても、せめて落語の稽古だけでもしてくれるならば、
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