べてを。棄てよう、すべてを。
いままでの一切の華美華美《けばけば》しかった自分の表飾りを、残らずかなぐり棄ててしまおう、芸も、暮らし向きも、扮《こしら》えも――ただひとつ小糸をいとしみ、いつくしむことだけは、天地の神々にお許しいただいて。
もうおかげで太神楽《だいかぐら》然としたあの装《なり》にも堪能して、さまでの未練はなくなってきてしまっている。
そして、扇だ、一本の扇だ、舌三寸だ、ただそれだけの正直な武器《えもの》で、正直な生活のドまん中から立ち直ろう、立ち上がろう、あくまで活き活きと進軍していこう。
扇一本で噺の名人の域に達して如実に見せるもののあいろ[#「もののあいろ」に傍点]はさぞや辛かろう。舌三寸で人情情景さながらに描き尽すに至る迄は、まだまだまだ今までの何十何百倍もの苦労が要るだろう。
いい、でも、いい。
あえて、あえて、歯をくいしばり、唇を噛み、両の拳握りしめて、それを押しつづけていったなら、この若者不憫と必ずや神々にも照覧あって、明日の世の中がどう変ろうと、一時は塗炭《とたん》の苦しみに遭おうと、やがてはまた再びしゃーいしゃーいと下足番の声なつかしき大入り客止めの寄席の春が、再びそこに開花しよう、展開されよう、その念願の春立つ日まで、苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、きっと私は勝ち抜いてやろう。
いま十何年ぶりで圓朝は純情小圓太の昔に還った思いがした。いや、少なくともあの純情という紺絣を取り戻し、抱きしめ、初々《ういうい》しく身に着けている、何とも晴れ晴れしい心地がした。勇気百倍。凜々としたものが、はち切れそうに身体全体へ満ち満ちてきた。辺りの闇を眺め廻した。
それにしても……それにしてもこの自分は、顧みればいままでたいていの身にふりかかる災難の火の粉を常に真心《まごころ》の纏《まとい》もて縦横無尽に振りしだいては、ひとつひとつそれを幸の景色にまで置き変えてきていた。悪しと身の毛を殺《よだ》たせたことは、のちにはこれことごとく次なる幸福へ到る段階のものばかり。今夜またこの江戸中がほとんどどうなってしまうか分らないという一大動乱までが、はしなくもこの自分の芸の上に、いま大きな大きないい変り目を与えてくれている。しかもその変り目、一番目から二番目への、あのチョーンという木頭《きがしら》のそれよりもっと頼もしい素晴らしい変り目ではないか。
私は、いや、私はじゃない、すべて愚かなほど一事に精魂傾け尽している人たちには、あらゆるいけない凶《わる》いことも、側からどんどん吉《よ》いことに変えられていくのだろう、まるで手品師《てづまし》が真っ白なまま函へ入れた※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《しんこ》細工の蓋《ふた》とればたちまち紅美しき桃の花一輪とは変っているように。
心だにまことの道にかないなば、祈らずとても神や守らん――ほんとうにほんとうだった、この歌のこの心持のほどが。
豁然《かつぜん》といま圓朝は心の壁が崩れ落ち、扉が開かれ、行く手遥かに明るく何をか見はるかすの思いがした。いままでとても幾度か幾度か心に黎明はかんじたけれど、あれらをかりそめの町中での夜明け空とするならば、これは比べものにも何にもならない夏草しとど露めきて百花乱るる荒漠千里の大高原に、真ッ裸になって打ち仰ぐ大日輪の光りにも似たるものよとおもわないわけにはゆかなかった。
とても言葉でいいあらわせない感銘だった、感激だった。
ポトリ涙が目のふちへ滲んだ。
と見る間に溢れた。
あとからあとから流れだしてきた。
いつ迄もそれが止まらなかった。
果ては顔中がベトベトになってしまって、尚かつひっきりなしにはふり[#「はふり」に傍点]落ちてくるもののあることが仕方がなかった。
いつか音に立てて圓朝は男泣きに泣きだしてさえ、いた、表の、いよいよ風まじえ、暴れ、哮《たけ》り乱れ鳴る小銃の音すら遮って降りつのりまた降りつのる底抜雨のざざ降りに、今ぞ根こそぎ快く身をも心をも洗い尽されるようなものを感じながら。
底本:「小説 圓朝」河出文庫、河出書房新社
2005(平成17)年7月20日初版発行
底本の親本:「小説 圓朝」三杏書院
1943(昭和18)年4月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※編集部のつけた各章のサブタイトルは省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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