い、師匠、仇《かたき》の家へきたって……」
「口ぐらいは濡らせってのか、分った分った、濡らすよ濡らすよ、じゃ早く濡らしてくれ」
 文楽は笑った。
「ヘイお師匠《しょ》さん」
 そのときお茶を持ってきた萬朝が、
「濡れぬ先こそ露をもいとえ、で」
「ちがってやがら、いちいちいうことが。そ、そんなことアそんなところへつかう文句じゃねえや」
 呆れて文楽はまたふきだしてしまった。荒い棒縞の外出着に着替えながらいつか圓朝も昨夜からのくさくさとしたものを忘れて高らかにアハアハ笑いだしていた。

「止めようとおもってたんだろお前、もう落語家を」
 美味いもの屋で通っている両国の小大橋《こたいきょう》の表はよく日が当っているのに、八間《はちけん》の灯でもほしいほど薄暗い一番奥の腰掛けで、ふた品三品並べて盃のやりとりしながらややしばらくしたとき、急に文楽はこういいだした。酔で赤くした笑顔の中に、ハッキリ真剣のいろが動いていた。
 黙ってコクリと圓朝は肯いた。その通りだった、ほんとうに。弟子には裏切られ、日に夜におもって止まない師匠からは袖にされ、ホトホト圓朝はきょう落語家稼業というものがいや[#「いや」に傍点]になり果ててしまっていたのだった。
「とおもったからあわてて大急ぎで俺やってきたんだ。危ねえ危ねえ」
 ワザと大袈裟に身慄いして、
「オイ、いまお前さんにそんな了見になられてみねえ、せっかく立派に咲く桜の花一輪|仇《あだ》に散らしてしまわにゃならねえじゃねえか。鶴亀鶴亀、たのむぜ圓朝さん」
 笑顔でお銚子を差し付けた。
 ヘイとお辞儀しながら飲みのこしの冷えたやつをグイと干して、
「いえ」
 自分がお銚子を奪うように並々と文楽の盃へ酌《つ》いでやると、
「でもあんまり……あんまりですから……」
 黙ってうつむいてしまった。そのとき文楽が置酌ぎにしてくれたこちらの盃の中へ、ポッカリと自分の顔が映って悲しく揺れていた。
「あんまりじゃねえんだ」
 キューッと盃の酒を呑み干して、また手酌で一杯酌いで文楽が、キッパリといった。
「へ」
「あんまりじゃねえんだよ」
 もういっぺんまた文楽はいった、またキッパリと。
「私のほうが無理なんで」
 恐る恐る圓朝は相手の目を見た、キビキビした中にもいたわりのある目を。
「お前のほうも無理でねえんだ」
 またズケリと文楽がいって、
「つまり両方とも、無理でねえ、至って人間らしい了見の持ち方なんだ。お互いに神じゃねえ、仏じゃねえ、詮ずるところ凡夫だからなあ」
「…………」
 文楽のいう言葉の意味がまるで圓朝には分らなかった。しきりとけげんに悧巧そうな目をまたたかせていた。
「おい圓朝さん」
 また手酌で一杯やって、
「師匠と弟子っていうものはな、必ず生涯にいっぺんは喧嘩をするものなんだ。悲しいけれど、そういうめぐり合わせにできているものなんだ」
「…………」
 いよいよ圓朝には分らなかった。いよいよボンヤリ文楽の顔を見ていた。
「犬猫だってそうだ、人間の餓鬼だってそうだ、無邪気な子供の時分はわけもなく可愛いけれどよ、これがちっと分別がついてきて元服でもする時分にゃ、妙にひとつところ小生意気で憎たらしくなってしまうだろう」
「…………」
 コクリと圓朝は肯いた。
「ところがだ、その時期を越してすっかり大人になってしまうとまた別の親しみって奴がでてくるだろう」
「…………」
 再び圓朝は肯いた。
「つまりそれと同じなんだ、弟子と師匠の間柄も。弟子が物心ついてきだすと、妙に師匠の目からは小生意気で、事ごとにこの野郎この野郎ととっちめたくなってくるものなんだ」
「…………」
「それとたいていの師匠って奴ァ自分そっくりの芸さえ演っていてくれりゃ、それでわけもなく嬉しがっているものなんだ、その弟子が売れようと売れめえと。ところがそれが弟子が何とか一流を編みだしたりしてくる、そうすると妙に自分というものを見棄てやがったような気がしてきて……サササササお前さんのほうじゃさらさらそういう気じゃなくってもよ、師匠のほうじゃどうしてもそう考えずにゃいられなくなるんだ。なるんだから仕方がねえ」
「…………」
「ほんとのことをいや親は、決して自分の忰なんて大きくならねえで、でんでん[#「でんでん」に傍点]太鼓に笙の笛てな子守唄うたって生涯こいつと暮らせたらと考えている。煎じ詰めたところ本音だろうそれが」
「…………」
 大きくまたひとつ肯いた、やっと少しずつ文楽師匠のいう意味が分ってくるような気がした。そういえば昨夜《ゆべ》うちの師匠、親に似ぬ子は鬼っ子だって世にも腹立たしそうにいったっけ。
「な、だろう。だとしたらその師匠と弟子と離れてきたってことは何もお前がそう深く考えるほどの事柄じゃねえんだ。マ、そういったってそりゃつい考えてはし
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