一年毎月いっぺんずつ繰り返している言葉ながらまたしてもここまで独り話してくるとき、きまって合掌しているしなやかな細い双の掌へ、はらはら涙がふりかかってくるのだった。
 みだれた声は、さらにつづいた。
「戻したいのでございます。返したいのでございます、お願いです。お師匠さまどうか……どうか私の技芸上達いたしますよう。三遊派のため、立派な真打になれますよう……」
 組み合わせている手と手を、いよいよキューッと固く合わせて、
「お導きなすって下さいまし」
 深く深く、額がお線香とすれすれ[#「すれすれ」に傍点]になりそうなところまで頭を下げた。そうして、いつ迄も上げなかった。
 ややしばらくして、はじめて顔を上げ、ホッとしたように辺りを見回したとき、ハッキリした目鼻立ちの顔中が、しとどの涙でかがやいていた。
 急いで手拭を懐中から、涙を拭いた。
 立ち上がってもういっぺん、世にも丁寧にお辞儀をして、それから圓朝はもときた道のほうへと歩きだした。
 ともすれば滑りそうになる小さな石段を下り、古井戸の脇のところへ最前の手桶を戻すと圓朝は、
「お世話さまでした」
 と遠慮深げにまだ地震のあとそのままの掘立小屋同様の門前の茶屋へ声を掛け、勘定キチキチに小銭を置いて、逃げるように表通りへでた。
 右も左も向こう側もズーッとお寺。そのひと列《つら》の土塀の上へ、いつかまたしとしと糠雨《こぬかあめ》がふりだしていた。ところどころ崩れた土塀の破れから、おそい一八《いちはつ》が花ひらいて、深むらさきに濡れていた。
 どこかで鳩の声がきこえた。
 筋向うの、大きな濡れ仏の見えるお寺の角を急いで曲って、天王橋のところまででてきて、はじめて圓朝は、自分を取り戻したような心持になった。
 もうここまできてしまえばいい。
 何もずるいことをしたってわけじゃなし、お線香代お花代それは払って、ただ余分の心づけがしてやれないってだけのことだけれど、それが不思議に苦患《ぐげん》だった。気がひけてひけてならなかった。
 何かおそろしく不当なことでも仕出かしてきた自分ででもあるかのように、堪らなく何か気が咎められた。
 三遊派の元祖、則ち初代圓生の祥月命日は三月二十一日。
 だからちょうど去年の今月今日、則ち五月の月は変れど日は同じ二十一日に、三遊派復興のため、いしくも月詣りを発心して以来、月々二十一日、かかさず池の端の住居からこの森下までお詣りにやってくる自分だったけれど、門番の爺やへ余分の心付けのやれないことだけが、そのたんびの苦しさだった。悲しさだった。
「ああちょうどまる[#「まる」に傍点]一年自分は森下のあのお寺からこの天王橋の通りまで、いつでもそのたんびかっぱらい[#「かっぱらい」に傍点]でもした小僧のように逃げ出してきたことになる」
 二年、三年、五年、十年――いや自分のいのちのあらん限り、照ろうと降ろうと、雪だろうと嵐だろうと、それこそ天から槍が降ろうと、初代さまお墓詣りに伺うことに何の苦労もあるわけとてなかったけれど、一日も早くたとい二文が三文でもあの門番へ余分の心づけがしてやれる身分にはなりたい。
 偽らざるこれが圓朝の本音だった。
「まず御先祖さま、お心づけのやれる私にだけ、大急ぎでさせて下さい」
 ギーイと音立てて開いた番傘を真っすぐにさし、天王橋を後に、御廐橋のほうへ歩きだしながら圓朝はさらに口の中でこう頼んだ。この道、大廻りは百も承知、金龍寺をでてつづく寺町を北へ、佐竹のほうへ抜けるとするとどこもかしこもお寺ばかりで、いつ迄もいつ迄もそこら中のお寺の門番から心づけをやらないことを叱られているような情ない気がされてならないからだった。
 ほんとうにボロ長屋でも一軒構え、阿母と二人やっと細々その日を過している圓朝にとっては、悲しやお線香とお花代とが精一杯の散財、その上の心づけなんて、とてもとても及ばぬ鯉の滝昇りなのだった。
「ほんとに……ほんとに……早く、早く俺真打になりてえなあ、三遊派のために」
 また独り言《ご》ちながら御廐橋の四つ角を左に、新堀渡って、むなしく見世物小屋の雨に煙っている佐竹ッ原を横目に、トコトコと圓朝は歩いた。それでも降りつづく雨で幾日も幾日も小屋を干して休んでいる佐竹ッ原の芸人たちの上をおもうと、まだしもいまの侘びしい自分の境遇のほうが増しかとおもわれたりした。
 だんだん雨が強くなりだしてきた。風をまじえて。
「いけない」
 幾度か傘をお猪口にされそうになりながら圓朝は、足を早めた。この傘壊してしまったら、今夜から席へさしていく傘がなくなる。
 必死に、汗みずくに闘いながら、やっと広小路から三橋を池の端へ。どこからか早い夕餉《ゆうげ》の油揚焼く匂いの流れてくる七軒町の裏長屋までかえってきた。
 連日の雨で不忍の池の水量がよ
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