、宮志多亭の御隠居だった。よっぽど腹を立てているのだろう、着ている革羽織がカサカサ音立てて慄えていた。頭《かしら》の上がりで木やり上手として知られているこの御隠居はまた、雷親爺と仇名された喧《やか》まし屋として文字通りの雷名を仲間うちに轟かせていた。しかもいまやその雷が黒雲踏み外して、真っ逆様にガラガラ下界へ落っこちてきたのだった。
「いい加減にしろイ、大馬鹿野郎」
目と目があうとすぐいった、ガクガク入れ歯を噛み鳴らしながら。
「……」
何が何だか分らなくて小圓太はちぢこまった。
「二度……二度上がる奴があるか、手前みてえなセコチョロ[#「セコチョロ」に傍点]が」
セコとは芸人仲間の符喋で、「まずい」「つまらない」という意味だった。
「な、何だって……何だってヤイ上がりやがるんだ、それもこんな深いところへ何だってオイ上がるんだよ」
そこらをこづき[#「こづき」に傍点]廻さないばかり笠にかかってきめ付けてきた。
「あいすみません、あとにまだ誰も参りませんし、鯉かんさんがお前上がれとおっしゃったもんで」
やっと自分の叱られているわけが分って、にわかにオドオド小圓太はいった。
「べ、べら棒め、鯉かんが上がれっていったって」
よけい破れっ返るような声をだして、
「つもってもみろ、手前にこんなところへ上がられたらせっかく入ってるお客様が皆ずらかっちまわあ。明日ッからこの宮志多亭はな、屋根へぺんぺん草を生やさなけりゃならねえや、このはっつけ[#「はっつけ」に傍点]野郎」
「すみませんごめん下さい」
もういっぺんまたオドオドと詫びた。
「閉めとけ御簾《みす》を。いつ迄でもあと[#「あと」に傍点]のくるまで閉めッ放しにしておけ」
さらに憎さげに隠居はいい放って、
「お前《め》っちが上がるよりゃア御簾のほうがよっぽどまし[#「まし」に傍点]だ」
そのまんまドタドタドタと木戸のほうへと足音荒くいってしまった。
その晩――いい塩梅に間もなく常磐津を語る枝女子という若いおんなが入ってきてくれ、そのあと早目に文楽師匠が入ったので高座は大した穴も開かずにすんだが、中橋に住んでいる文楽師匠の駕籠を見送ったのち小圓太は、いつ迄もいつ迄も細い路次の入口に掲げられた宮志多亭の招き行燈を、ジッと目に涙をいっぱいたたえて睨んでいた。「桂文楽」一枚看板の灯はとうに消されていたが、ひどい空
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