圓太に文楽師匠という存在が、師匠圓生の次にありがたくてならない人におもわれてきた。いつも粋な唐桟《とうざん》ぞっきで高座へ上がる文楽師匠は頬の剃りあと青い嫌味のない色白の江戸っ子で、まだ年はうちの師匠より十も下だろうが、いまが人気の出盛りで、それには下の者へよく目をかけてやるというので滅法楽屋の評判がよかった。噺もまた巧く、「一心太助」だの「祐天吉松」だの講釈種のそれも己の了見そっくりの達引《たてひき》の強い江戸っ子を主人公とした人情噺がことに巧かった。ほんとうに太助や吉松はこんな人物かとおもわせるほどだった。何よりそれには「噺」の線が江戸前で、藍微塵のようなスッキリとしたものを目に描かせた。そのあく[#「あく」に傍点]抜けのした話し口に小圓太は心を魅かれた。
「困ったなおい、俺はこれから西の窪の大黒亭まで行かなけりゃならねえ、もうこれ以上つなげねえんだ」
 ある晩さんざ[#「さんざ」に傍点]つないで下りてきた鯉《り》かんさんがいった。事実「両国八景」を目一杯にやって、そのあと声《こわ》いろまでやって下りてきたこの人だった。俎板のようなぶ厚い顔へとりわけ今夜は寒というのにビッショリ汗を掻いていた。
「すみません。ですけど師匠、まだあと[#「あと」に傍点]が……」
 困ったように小圓太は俎板のような顔を見上げた。
「分ってるそりゃ分ってるが、こなくても俺はもうこれ以上かかり合っちゃいられねえんだ俺は。こっちはもう仁義だけは尽したつもりだ」
 鯉かんさんはいった。まさしくその通りだった。
「そりゃもうよく」
 小圓太はひとつお辞儀をした。
「じゃ、くどくもいうとおり西の窪の大黒亭へ駈け上がりなんだ」
 駈け上がりとは時間ギリギリに楽屋へ入ってすぐそのまま一服もせず、高座へ駈け上がっていくの謂《いわれ》だった。
「じゃ頼むよ後」
 そのまま慌ただしく行こうとした。
「ア、モシ師匠」
 あわてて小圓太は花いろの道行の袖を捉えた。
「な、何だ」
 立ちのまま鯉かんさんは振り返った。
「困ります師匠に行かれちゃ」
 泣き声をだして小圓太は引き止めた。
「俺も困るよ、お前に留められちゃ」
「お願いしますだから」
「こっちがお願いするといってるじゃねえか最前《さっき》から」
 困って俎板面をしかめたが、
「ア、いいことがあら」
 急に安心したように肯いて、
「上がんねえ」
「エ、上
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