てくる大汗でたちまち絵の具皿の中がダブダブになってしまった。これには困らないわけにはゆかなかった。
ウーム、ひどい。
何べんか拳固で額を横撫でにこすり上げては溜息を吐いた。こんな暑さじゃ寄席もお客がこなかろうし、第一、汗ッかきの阿父さんさぞ困ってるだろうなと、珍しくそうしたことをふとおもった。
「次郎、かかるぜもう」
そのとき仕事場のほうで芳年の甲高い声が聞こえた。
「持ってきておくれな絵の具を」
つづいて芳幾の声だった。
「へーイ」
いま溶いていた絵の具皿の、まず胡粉のからグイと両手で差し上げて立ち上がろうとしたとき次郎吉は、急に目の中へ白い矢が突き刺さったようなものを感じた。クラクラと足がよろめいた。
皿の胡粉が漣《さざなみ》打ってきた。
ア、いけない。
おどろいて足を踏みしめようとしたとたん、今度は目の前が真っ暗になり、何ともいえないきな[#「きな」に傍点]臭いようないやあな[#「いやあな」に傍点]匂いが鼻先を掠めた。ひどい吐き気を感じてきた。
いけない、ウー、いけない。
我れと我が身へしっかりしろしっかりしろと呼びかけたけれど、何の他足《たそく》にもならなかった。カカカカーッと火のようなものが胸許を走り上がってきたとおもったら、何だろうガバガバガバといきなり吐いた。絵の具皿を放りだしてうつ[#「うつ」に傍点]伏せに打ッ倒れたのとガーッと何をか吐いたのとがほとんど同時だった。
「……」
けたたましい物音に愕いて兄弟子たちが駈けつけてきたとき、
「ウム、ウーム」
すさまじい呻り声立てて、バッタリ次郎吉は倒れていた。しかも倒れているその周り、時ならぬ胡粉の雪の白皚々《はくがいがい》へはベットリながれている唐紅《からくれない》の小川があった。
吐血したのだった。
とりあえずその小部屋へ蒲団を敷いて次郎吉は、寝かされた。ある者はすぐ医者を呼びにいった。またある者は湯島の家へと報せに走った。
意地も我慢もなくただもうグッタリと次郎吉は、絵の具の匂いの濃く鼻をつく暗い蒸暑い小部屋の片隅で伸びていた。青白く血の気の引いた硬ばった顔が、ピクピクピクピク痙攣していた。ときどき起き上がるとトプッと枕許の金盥《かなだらい》へまた血を吐いた、ほんの鶏頭の花ほどだったが。
「しっかり、しっかりしろ次郎。いま桐庵先生がきて下さるぞ」
やっぱり酒で真赤な顔
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