仕方がなかった。
さてもういっぺんいわせて貰おう、さるほどに――。
ことごとく世は真夏となって、師匠国芳がこの玄冶店の路次々々へ声涼しげにくる心太《ところてん》売を呼び止めては曲突きをさせたそのあと、二杯酢と辛子で合えたやつを肴に、冷やした焼酎を引っかけるのが日々の習いとなってきたころ、次郎吉の腕はいよいよ上がってどうやら近日師匠の代作の三枚続きを仕上げられる迄に至った。
もちろん芳年、芳幾といっしょにだったが、それにしても、構図は九絞龍と花和尚が瓦灌寺雪の暗闘《だんまり》の大首絵とあっては――。人物風景の大半はほとんどこの兄弟子二人が片づけてしまい、まだ表立って名も貰っていない次郎吉はベトベト胡粉《ごふん》で牡丹雪を降らすばかりだったが、それだけのことでもこの程度の修業年月で引き受けさせられるのは前例のない速さだとされた。天にも昇る心地してさっそく湯島の両親のもとへ報せてやった。
何よりも母のおすみが喜んだ。
「今度こそお前、あの子も本物になったよ」
こういっておすみが顔を燦《かがや》かせると、
「ほんにほんに。芸は芸でも絵師ならどんなにか世間体もよいし。でもまあ母上、真実にようござりました」
報せに駈けつけてきた玄正も幾度か他人事ならず嬉しそうにひとり肯いたりした。
しっかりやっておくれ、兄《あに》さんも大へんにお喜びなのだから――間もなく母からは心をこめた激励の手紙さえ届けられてきた。さすがに次郎吉、うれしくないことはなかった。ばかりか、心が弾み立った。
俺しっかりやる。
たとえ雪ばかり描くんだって、兄弟子さんたち二人に、きっと負けないようやってみせら。
キッと唇を噛みしめて、次郎吉は心に誓った。
……その日がきた。
上からは照る、下からは蒸すとよく講釈師がいうような烈しいあぶらでり[#「あぶらでり」に傍点]。朝のうち、曇っていまにも降るかと見せたのがまたいつか雲が絶え、どうやら天気が持ち直してきた。で、いっそう暑さがしつこく[#「しつこく」に傍点]ジリジリしてきた。
暑さで気が狂いそうだといって師匠の国芳は、朝から素ッ裸で冷やした焼酎ばかり傾けては、ボリボリ薄青い胡瓜を丸齧りにしていた。
緊張していたから次郎吉は暑さも物皮《ももかわ》の意気込みだったが、うつむいて台所の脇の小部屋で絵の具を溶いていると、さすがにあとからあとから落ち
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