が、まるで南蛮渡りの秘薬の匂いでも嗅がされたよう、うれしく、悲しく、ただぼんやりと憑かれたように媚《しび》れてきてしまっていた。
「……」
 ボーッと夢見心地に包まれながら次郎吉は、そのままフラフラフラフラ薄闇の彼方へ迷いでていった。夢中で黒塀について曲った。
「シャーイ……シャーイ……」
 赤と青と提灯の灯が揺れ、拙《つたな》い字で天狗連らしいちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]な落語家の名前が、汚れた庵《いおり》看板の中にでかでか[#「でかでか」に傍点]と書かれてあった。まだお客は一人もつっかけていないらしかった。
 でも提灯の灯も庵の中の芸人の名前も何にも次郎吉には見えなかった。ただシャーイシャーイというあの聞き馴れた声ばかりが大きくなつかしく聞こえてきた。恋びとの声にも似て、それはキューッと胸許を嬉しく苦しく掻きみだし、また締めつけてきた。
「……」
 黙ってスーッと入っていった。そのまんま正面にひろがっている大きな段梯子をカタカタ上がっていこうとした。
「オ、オイ兄《あん》ちゃん下駄々々、下駄ッたら、困るよ兄《あん》ちゃん、そんな下駄のまんまで上がられちゃ」
 背中からけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
 やっぱり黙ったまんま後戻りして黙って下駄をぬいだ。そのまんま黙って上がっていこうとした。
「オ、オイ木戸銭々々々」
 またけたたましい下足番の声が追い駈けてきた。
「……」
 三たび黙って後戻りすると、シッカリ両手に掴んでいたものを、ポンと下足番の前へ突き出してひらいた。
 コロコロコロ。
 異様な青黄いものがたちまち土間へころがった。
 慈姑だった。最前の。

 今度かえってくるようだったら、もう阿母さんはお前を家へ置きません、いいえ阿父さんが何とおっしゃっても。頼むからお前辛抱しておくれね。
 泣いて、こう母親に意見されて、その次の日、次郎吉は練塀小路《ねりべいこうじ》の肴屋魚鉄へ奉公にやられた。四十ちかいガチャ鉄と仇名される赤ら顔で大男のそこの主人は、三度の飯より喧嘩が好きで、一日にいっぺん往来で撲り合いをしないとお飯《まんま》が美味しくたべられない男だった。左右の腕へ上り龍下り龍の刺青をした見るから喧嘩早そうな見てくれで、どこでも喧嘩をしなかったときは血が騒いでならないとて手鉤を持ってきては商売物の大鮪や大平目の胴体へ、所|嫌《きら》
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