いた。
どうしよう。
ああ、どうしよう。
でも、今更どう足掻いたとてもがいたとて、しょせんがどういい知恵がでるでもなかった。
おもえばおもうほど、考えれば考えるほど、ゆく手が真暗闇になってしまった。しかもあとからあとから目の前にひろがってくる不安の常闇はまるでとこしなへ[#「とこしなへ」に傍点]の日蝕皆既のよう絶えずいや増してゆくばかりだった、まるで烏賊《いか》の吹きいだすあの墨のように。
仕方がねえもうこりゃ、どうにもこうにも……。
いいながらもまだ涙をいっぱい溜めた目で、力なく手の中の狐の耳を抱きしめていたが、
「堪忍しとくんなさい親方、お神さん……」
誰もいない奥のほうヘシッカリ両手を合わせると、
「ねえ、ねえ、ごめんなさいほんとに」
心からまたもういっぺんこういって、そのまんまプーイと表へ。後をも見ずに逃げだしてしまった。
そのあと空しく薄暗い土間へ放りだされている石の狐の耳ひとつ。
……表はいつか数え日の暮れがたの暗い氷雨が音立ててさびしくふりだしていた。
その晩おそく石屋から火の玉のようになって談じ込まれた湯島の家では、圓太郎夫婦が平あやまりにあやまったのち、圓太郎がお座敷三つ分稼いだお銭《あし》を五、六日して先方へ届け、やっと勘弁して貰った。
「仕様がねえおたんこ[#「おたんこ」に傍点]茄子だ」
忌々しそうに圓太郎は呟いた。だからいっそのこと芸人にしちまえば……とつい口まで出かかってくるのを、危うく圓太郎は耐えていた。
あくる年の二月、今度は池の端仲町の山城屋という両替屋へ奉公にやられた。
いろいろさまざまのお金の山の中へ身を置かれて、お金の誘惑はプツリともなかったが、端《はした》なお鳥目の誘惑の方はしきりだった。といって何も持ちだして買い食いをしようの、悪遊びをしようのというのじゃない。今年十二になる坊っちゃんの書きかけて止めにしてしまった手習草紙があるとすぐそれをもらっては四つに切った。また八つに切った。その紙の中へお店の小銭を適当に掴みだすと、手際よくクルクルと包んではすぐ封じ目を糊で貼った。
そしてその上へ、下座さんと書いた。
圓之助様と書くのもあった。
橘太郎様と書くのもいた。
圓八様ともまた書いた。
さらに勇八様と、圓助様と――みんな落語家時代の同じ楽屋の人たちの芸名だった。
また小圓太様と自分で自
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