ず、長押《なげし》といわず、欄間といわず、そこらのもの片っ端から滅多斬りに斬りまくってしまいたいくらいだった。まさかにそれもできないで、ジッとこうやっている圓朝の膝頭はしきりにワナワナ慄えていた。めもけ[#「めもけ」に傍点]に雨が屋根を叩いてきた。それだけが唯ひとつのたよりある現実として身近に大きく聞こえていた。
「いまに江戸中が火の海になるともいいますし」
 また小糸がいつになく口早に、
「大砲《おおづつ》で権現堂の堰を壊してお江戸を水浸しにしてしまうともいいますし……聞いていて私、何だか自棄《やけ》になりそうで困ってしまった」
 幾度か、しなやかな指で瞼を押さえていた。
「ま、しかし」
 やがてのことに圓朝は、
「随分いろいろいうだろう、世間は。どこ迄がほんとうだか、どこ迄が嘘だか、いってる本人にさえ、まだ分ってはいないのだ。それを、いちいち真《ま》に受けて考えつづけてみたところではじまらない」
 ネ、そうだろうとばかり顔を見て、
「だからもう戸閉りを厳重に、火の用心をよくして。今夜はきよ[#「きよ」に傍点]もいっしょにここへ寝かしておやんなさい、お前の傍へ」
 きよとは女中の名前だった、大きく戦《おのの》きながらうずくまっているほうへ目をやった。
「分りましたじゃすぐお床を」
 やっと瞼へ押しあてていた指を離して、
「きよや、じゃお前もすぐお前のお蒲団を持ってきてここへお敷き」
 こう命じた。
 やっといくらか元気づいてきよが次の間へ立ち、小糸が戸棚を開けて真紅な夜具をだしはじめたとき圓朝は、台所からもうひとつ小さな手燭へ灯を点して持ってきた。
「万一のときのことを考えて私は二階に置いてある書きものの始末をつけてくるから」
 こういって、
「すぐ下りてくるけれど、構わないから先へお前たちは寝ておしまい」
 手燭片手に、そのままミシミシ音させて梯子段を上がっていった。また小銃が、乱れ打ちに聞こえてきた、「ヒ、人殺し」。そのあとヒイーと尾を曳いた異様に甲高い若い女の叫びといっしょに。車軸の雨の中走りゆく六、七人の足音が、にわかに乱れた。

 二階の最前の部屋へ入ってペタンと坐り、傍らへ手燭を置いたとたん、裾風でだろうか、音もなく灯は消えてしまった。
 鼻をつままれても分らない真の闇。雨で湿《しっ》けた、生乾《なまがわ》きに似た壁の匂いがムッと鼻を衝いて、また小銃が
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