》へ寄った。少し乗りだすようにして両国橋のほうを見るとポツリポツリ、早くも親指の尖のほど渦巻がいくつもいくつも川面へ描かれてはまた消えている。
 でも、どうしてだろう、いつももう浮いたようないろの灯点して囃し立てている広小路の盛り場が、ヒッソリ今夜は薄闇の中に静まり返っていた。
「出してくれ着物」
 すぐ高座着をださせ、合羽をださせ、かっこうよくひとつひとつそれを身に着けて、
「じゃ、おい」
 いってくるよといっしょに階下《した》へ下りようとしたのと、バタバタ真っ青な顔して女中の駈け上がってきたのとがいっしょだった。
「あの……おいでになれませんよお師匠《しょ》さん寄席へは」
 息はずませて女中はいった。
「どうして」
 圓朝は訊ねた。
「開かないんです木戸が」
 また女中はいった、やっぱり息はずませながら。
「な、何ですかいま……大へんな戦《いくさ》が始まったんですって」


     六

 すぐに圓朝は、小糸を自分の家へ――。
 母を見舞わせ、弟子たちの様子を聞かせ、同時に戦の様子も詳しく聞いてこさせることにした。自分は女中を手伝って二階を片づけ、すぐまた下りてきてどんどんそこらの戸を閉めた。すっかり閉め切ってしまったとき、サーッと篠《しの》を乱したような大降りになってきた。
 ダン、ダ、ダーン。なるほど殷々《いんいん》たる砲声が、遠くのほうから轟きだしてきた。
 いよいよ何かはじまった――。
 戸棚から真鍮の燭台を持ちださせ、それを下の座敷のまん中へ置いて圓朝は、たった一本だけのこっていた青蝋燭へ灯を点した。普通の蝋燭の灯のいろとちがって少し陰気で薄黄色いのが、いっそうこの場合の部屋のたたずまいを無気味にした。四方八方閉め切っているのにしきりにどこからか生暖かい風が忍び入ってきて、その灯を揺り動かした、まるでいまにも消してしまいそうに。無気味さが、ますます部屋一杯にひろがってきた。
 その灯の傍に坐って圓朝は、ジッと目を閉じ、腕組んでいた。少し離れたところに、ペタッと腰を落として女中も遠くから不安そうに主人の顔を見上げていた。
「開けて……あの開けて……私」
 ピューッとまた横なぐりの雨が表の戸へ吹きつけてきたとき、小刻みに駈けてきた足音が急に止まって、声がした。小糸だった。すぐ女中が立っていった。
 びっしょり[#「びっしょり」に傍点]濡れしょぼけて入って
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