の雁が先になったら笄《こうがい》取らしょ……、小さいときから大好きなこの唄を誦もうともしなかった。
「……」
 いっそう目は雁の列とは反対の上野の御山のその先のほうへ、ジッと、ジィーッと注がれていったその辺りいっときは夕闇が濃く、広小路辺りの繁昌だろう、赤ちゃけた燈火の反射がボーッと人恋しく夜空へ映って流れていた。
「……」
 ためつ、すがめつ。そういった感じで次郎吉は、その明るみを見つめていた。なつかしくてなつかしくてたまらない風情だった。
「……」
 夜目にもだんだんその目が曇ってきた。フーッと深い溜息を吐いた。そうしていった。
「……あの赤く見える下に寄席があるんだ、吹抜亭が……」
 銭湯の柘榴口《ざくろぐち》のような構えをした吹抜亭の表作りがなつかしく目に見えてきた。愛嬌のある円顔をテラテラ百目蝋燭の灯に光らせて、性急《せっかち》そうに歌っている父橘家圓太郎の高座姿がアリアリと目に見えてきた、いや、下座《げざ》のおたつ婆さんの凜と張りのある三味線の音締《ねじめ》までをそのときハッキリと次郎吉は耳に聴いた。
「出てえ……やっぱり俺《おいら》、寄席へ出て落語家《はなしか》がやっててえ」
 何ともいえない郷愁に似たものがヒシヒシ十重二十重《とえはたえ》に自分の心の周りを取り巻いてきた。ポトリ涙が目のふちに光った。
 と、見る間にあとからあとから大粒の涙はポトポトポトポト溢れてきた。
 頬へ、条《すじ》して光って流れた。
「……俺、俺……」
 とうとう次郎吉は洗いざらしたつんつるてん[#「つんつるてん」に傍点]の紺絣《こんがすり》の袖を目へ押し当てて、ヒイヒイヒイヒイ泣きじゃくりだした。
 ……そのころ日暮らしの里と呼ばれた日暮里はずれ、南泉寺という古寺の庭。
 次郎吉は始めにもいったよう、芸名、小圓太。
 音曲噺《おんぎょくばなし》の上手、橘家圓太郎の忰として七つの年に初高座の、それから十四の今年まで、しょせんが好きで遊び半分の出たり出なかったりの勝手勤めではあったけれど、とにかく、正味五年にはなる高座暮らしをしてきたのだった。
 それがなんと晴天の霹靂《へきれき》。
 二、三日前、急に高座から引き摺り下ろされて、繁華な湯島切通しの自宅から場末も場末、こんな狐狸の棲む日暮里の南泉寺なんて荒寺の小僧にされてしまったのだ。
 この寺の役僧をしている腹違いの兄玄正が闇雲
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