師匠の二代目三遊亭圓生の身振りうれしき芝居噺の画面の姿を髣髴《ほうふつ》と目に躍らした。親玉ァとさえ、また叫びたかった。
「なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
あまりのことに自分が情なくなってきて次郎吉は、急にカラリと明るい調子でお念仏を唱えだした。あとからあとから尽くるところなく唱えだしたのだった。
「……」
たまたま廊下を、義兄玄正が通り合わせた。
覚えろといった般若心経ではないけれど、心を空の念仏三昧。ではやっと落語家たることをあきらめてくれたか。
秋の霜のような烈しい顔をそっと綻ばして喜ばしさに通りもやれず玄正は、そのまま廊下に立ち停まって耳傾けていた。
「なんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだなんまいだ」
明るいお念仏の声は、いつ迄もいつ迄もつづいた。果てしなくつづいていった。
とおもううち、
「……おい婆さん、飯が焦げるよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ」
いきなり次郎吉は爺臭い声をだして、
「おい誰だい赤ん坊を泣かすのは……うるさくっていけねえ、気を付けろよなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、アオーイ鰌屋《どじょうや》、いくらだ一升、ウ、高《たけ》え高え負けろ、もう二文負けろィ、あれ因業《いんごう》だな、ヤイ負けねえとぶンなぐるぞ、ア負けたか感心なんまいだぶなんまいだぶ、オイ婆さん、早く笊を出してやんな、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、何、因業な割には安い鰌屋だって、ウ、そいつァよかった、じゃすぐお味噌汁《みおつけ》の中へ入れちまいねえ、なんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶなんまいだぶ、どうだ入れたか皆、なんまいだぶなんまいだぶどんな具合だよ鰌は、なんまいだぶなんまいだぶ、鰌、皆白い腹だして死んじまったって、態《ざま》ァ見やがれ、なんまいだぶなんまいだぶ……って。これじゃ何にもなりやしません」
ここまでトントンとひと呼吸に喋ってきて始めてホッと我に返ったように、
「ヘイお馴染の小言念仏、ちょうどおあとがよろし……」
いいながら何気なく見た廊下には、
「ア!」
さながら入道雲のよう渋面つくった義兄玄正がニュニューッと一杯に立ちはだかっていた。
「い、い、いけ……」
このまま心臓の鼓動が止まってしまうかとばかり次郎吉はおどろいた。目を白黒した。
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