た。
「……」
 昨夜みんなのあとへつづいてしどろもどろに誦んだ般若心経を、早く覚え込んでしまわなければならない。
「エヘン」
 誰にともなく咳払いした。そうして目の前のお経文へと目をやった。
「観自……観自……在菩薩」
 読みかけてまた、
「観自……観自……観自観自」
 あとの観自は、ことさらに二つ重ねていった。
 かんじ……かんじ……観自ではなく、かん治。宗十頭巾に十徳《じっとく》姿、顎鬚《あごひげ》白い、好々爺《こうこうや》然とした落語家《はなしか》仲間のお稽古番、桂《かつら》かん治爺さんの姿が、ヒョロヒョロと目の前に見えてきた。
「いけない」
 あわてて次郎吉は、首を振った。俗念を払おうとしたのだった。
「観自在菩薩、深般若波羅蜜多を行《ぎょう》ずる時、五薀《ごうん》皆空《かいくう》なりと照見して……」
 急いでここまで読み下して、素早くさらに次の言葉へと読み移った。
「一切の……一切の苦厄……苦厄……」
 九百九十の寺々に、きのう剃ったも今道心……苦厄という言葉がそのまま九百へ連想を走らせてきた。おととい剃ったも今道心、ただ道心では分り申さぬ、と同時にこんな張りのある訥弁《とつべん》の声《こわ》いろが、あとから耳許へ聞こえてきた、木の葉の合方、山嵐や谺の鳴物も聞こえてきた、扇で半面隠して一生懸命声張り上げている小勝《こかつ》師匠の高座姿さえマザマザとして見えてきたのだった。
 グオーン。
 そのとき遠くの位牌堂のほうへ行く道で、誰かが鐘を鳴らしていった。それすら時にとっての本釣りと聞こえた。
「紀の国屋」
 思わずこういってしまって、ギョッと口を押さえた。あわてて辺りを見廻した。幸い、誰もいなかった。急いで次のお経へかかった。
「一切の苦厄をだしたまう、舎利子、色《しき》は空《くう》に異らず、空は色に異らず、色|即《すなわ》ち是れ空、空即ち是れ色、受想行識《じゅそうぎょうしき》もまた是の如し」
 ここのところはトントンといった。ことさらに連想さそわれるものがなかったからだった。でも、そのあとがまた、続けざまにいけなかった。
「生せず、滅せず、垢つかず浄《きよ》からず、増さず減らず」
 というところへきて、このごろ世間で時花《はや》っている阿呆陀羅経のないものづくしの真似をする蝶丸爺さんのあざらし[#「あざらし」に傍点]のような顔を次郎吉は思いだした。危うく
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